第 7 巻

 父・信秀



    さて、前々巻にて織田信長の父・信秀のことのふれたので、もう少し・・・

    織田三郎信秀。弾正忠。のち備後守。

    尾張守護代(清洲方)織田氏の傍系にして三奉行の一人。

    織田弾正忠信定の嫡男。 祖父は織田弾正忠良信と思われる。



織田弾正忠 家


    ざっと読んで解ると思うが、代々弾正忠を名乗っている。

    「永正年間、織田弾正忠勝幡城(津島市近郊)を再築す」 また 

    織田弾正忠良信が三奉行であると言う記録もあるようで 

    良信の代から清洲方の守護代織田氏の内では有力であったと思われる。

    (もちろん尾張半国の守護代の奉行衆という小さな勢力ではあるが)


    当時、津島は尾張国随一の港町であり、門前町としても栄えた商業都市であった。

    その北方わずかばかりの所に城を築き拠点としていたからには

    津島の利権を当然手中に収めていたとも伺える。

    堺や博多に比べれば、小さな規模であるかもしれないが、

    古来武家の収入は領内の田畑が主である。

    偶然に津島近辺を拝領したのか、狙って城をうちたてたのか定かではないが、

    織田弾正忠家が台頭していく基盤となるものの一つに津島の商業的利権が 

    からんでいたことには間違いないと思われる。

    天文十二年(1543)永楽銭四千貫を内裏の修復にと朝廷へ献上したとある。

    この頃は未だ信長も元服せず、信秀は尾張のほんの一部を所領していた陪臣のままである。


    商業都市を手元に置き、その実状を見てきた信定、信秀と信長。

    彼らの政策に、それらはなんらかの影響を与えたのだろうか。

    ことに信長の商業政策・都市計画を顧みるに、わずかばかりかもしれないが 

    影響を与えたのではないかと思う。

    少なくとも戦乱の勝ち負けを中心に歩んできた、他の武将・土豪とは「商業・都市」に 

    冠する見方が大きく違っていたのだろう。 



三郎信秀


    さて、ここで信長の父・三郎信秀の頃の尾張の勢力図はというと。

    尾張国守護斯波氏は名目だけの守護となり果て、実権は守護代織田家が握っていた。

    その守護代織田家も南北に分かれ上四郡を支配する大和守家(清洲城)と 

    下四郡を支配する伊勢守家(岩倉城)が互いに争っていた。

    さらにその守護代織田家も清洲の三奉行らが力を付け始め、同族ながら 

    尾張国内の覇権を凌ぎあっていた。

    もちろん丹羽・前田・堀田・水野といった土豪も独自の判断でそれぞれの側につき 

    あるいは美濃の斎藤、三河の松平、駿遠の今川といった他国の勢力になびいていた。


   「織田弾正忠勝幡城を再築す」とあるように清洲三奉行の一人、織田弾正忠信定が津島を 

    手中にしたのは永正四年(1524)という。

    当時、津島は豪商・土豪の支配する独立した商業都市的な土地であったらしい。

    (堺の会合衆のようなものか。)

    弾正忠信定は執拗に津島を責め立て、また和睦し遂に津島を手中に収めた。

    このころ信定の子・信秀は元服を迎えた。


    信定の跡を継いだ信秀は勝幡城から尾張に覇を唱えるべくのりだす。

    居城を那古屋城へと移した。

    この那古屋城は現在の名古屋城二の丸に建っていた。柳の城とも号したという。

    那古屋城の城主は今川左馬助氏豊。 駿遠の国主今川氏親の末子である。

    当時連歌などがはやり、ときには敵味方を越え武将・土豪らが集まり歌を詠み合っていたらしい。

    実際、那古屋城は今川方、守山・品野が松平、海部郡に斎藤方の堀田氏と、南北の織田氏以外にも 

    各勢力が乱れ飛んでいたのであるが、戦以外の時は結構こういったことに勤しんでいたようである。

    その日も弾正忠信秀は今川氏豊に招かれ那古屋城へと赴いた。

    その夜、病と称して近従を招き那古屋城に逗留さててもらうが、この近従こそ那古屋城を内から 

    攪乱する計略である。

    織田丹波守ら、わずかな手勢と城内からの攻めによって瞬く間に城を奪い取ってしまったという。


    天文四年(1535)、三河の松平清康が尾張に兵を向けた。 

    しかし弾正忠信秀にとっては、これが幸運にも守山崩れという形で不戦勝する。

    天文九年(1540)、今度は弾正忠信秀が三河を攻め、安祥城を奪取。

    天文十一年(1542)、第一次小豆坂の戦い。

    天文十七年(1548)、第二次小豆坂の戦い。

    この小豆坂の戦いについてはやや不明確である。

    本当に二回も戦われたのかも疑わしさがのこる。

    第一次では織田方が勝利し、第二次では松平・今川方が勝利したとなってるが、

    織田方の文書も松平方の文書も互いに「小豆坂の戦いは当方が勝利した。」とあるばかりである。

    ちなみに豊臣秀吉で有名な「賤ヶ岳の七本槍」は、この小豆坂の戦いで奮戦した織田方の七将 

   「小豆坂の七本槍」からもじったという説話もある。

      「小豆坂の七本槍」とは、織田孫三郎信光(信長の叔父)・織田造酒丞信房(信辰)・下方弥三郎貞清・ 

       岡田助右衛門尉重善・佐々隼人正・佐々孫介(共に佐々成政の兄)・中野又兵衛一安の七将。

    また、この間に永楽銭四千貫を朝廷に献上している。 

    美濃の斎藤道三と和睦。 信長と濃姫の婚姻をとりつける。

    安祥城を奪われ城主織田三郎五郎信広(信秀の庶長子)が捕らえられる。

    松平竹千代を捕らえる。 三郎五郎信広と人質交換。

    そして、帰らぬ人となる。 以後第5巻参照



    織田信長という男は稀代の天才であろう。 

    だが、信長も一代限りの突然変異的な天才ではなく、父・祖父の血を受け継ぎ育てられた 

    織田家の結集ではなかろうかとも思える。 

    あまりにも信長の功績が大きすぎたが為、その影に隠れてしまっているが、戦国期にあって 

    弱小勢力ながらも光るものが多いと思う。 

        その実、斎藤・今川の強大な軍事力に対しものともしなかったのは信秀である。 

       商業的利権に着眼したのは信定である。 

    父あって、この子ありき・・・である。 

 




前 巻 第5巻を読む

次 巻 第8巻を読む

戻 る 信長のページへ戻る