第 5 巻

家督相続




    織田信長は父・信秀の死により、その家督を継ぐ。

    信秀の法要は大須・万松寺(当時は昭和区小桜にあったらしい)でおこなわれた。

    このときの尾張のうつけ者の行状は、あまりにも有名である。

  

     信長御焼香に御出、其時信長公御仕立、長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、

     髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで仏前へ御出であつて、抹香をくはつと御つかみ候て、

     仏前へ投懸け御帰り。


    信長は「うつけ者」と呼ばれる普段のままの姿(長柄の大刀と脇差を縄でくくり

    袴もはかず、まげを茶筅に巻き立てて)で参列し、焼香するかと思いきや

    抹香をくわっと掴み父の仏前へ投げつけて帰ってしまったのである。




喪を秘すこと


    織田信秀の死には諸説ある。

    天文二十一年(1552)三月。 万松寺過去帳。

    天文十八年(1549)三月。 寛政重修諸家譜。

    天文十七年(1548)冬。 織田系図。 等々。

    天文二十年(1551)三月三日が有力な説で、小説や映画もこれにならっている。

    だが、昨今注目を浴びているのは天文十八年(1549)三月三日説。

   「武功夜話」で喪を伏せたことが記されている。

   「武功夜話」自体の真偽を問う声もあるが、「喪を秘する為」と思えば見えないものも見えてくる。

    信秀の往年に諸説あるもこの為か。

    では、なぜ喪を伏せることが必要だったのだろうか。

    織田家といっても織田信秀はあくまで分家で織田宗家にたいして家臣の家柄。

    簡単に述べると・・・

    織田家とはもともと尾張守護斯波氏に仕えた守護代の家。

    応仁の乱以後、斯波氏が家督を二つに割り争ったように織田家も分裂。

    織田伊勢守家(上四郡岩倉方)と織田大和守家(下四郡清洲方)である。

    伊勢守家と大和守家は尾張の中で守護代の地位を争い、そこへ美濃の土岐氏・斎藤氏、

    三河の松平氏や水野氏など土豪と、時には離れ時には付き、相克していた。

    織田信秀の生まれた織田弾正家はその織田大和守家の下で働く三奉行の家なのである。

    当時、武家集団は小さな武家団の集合体であって後の幕府や大名のようなピラミッド型の

    管理組織ではない。

    小さな武家団がより強い武家団の当主を大殿・お館さまと呼び主従関係を結んでいるだけである。

    血縁・一門といえども、それは同じでより強い武家団があらわれればそちらにつく。

    より強い武家団がいなければ自らが大殿・お館さまとなる。

    織田信秀はそんな中、織田大和守麾下の織田弾正家からめきめき頭角を表し、

    主、大和守家をしのぐほどになる。

    当然、大和守家は面白いはずもなく、伊勢守家からも煙たがられていたにちがいない。

    もちろん、尾張を狙う美濃斎藤氏、三河松平氏からも注目を受ける存在だった。

    次の当主が「うつけ者」では頼りなかったからだろうか。

    たしかに美濃はあの斎藤道三である。

    三河も尾張一国など比べものにならない程の大国今川氏の手に落ちている。

    尾張国内も二勢力あり、さらに味方の大和守家も味方とは言い切れない間柄である。

    織田信秀の力で切り開いた織田弾正家の土地を、はたして信長の若さと経験で守りきれるのか。

    次の当主が「うつけ者」でなくとも、時間稼ぎはしたい状況ではある。



抹香を投げること


    ではなぜ信長は冒頭のような行動をとったのか。

    若さと反骨の精神という見方もある。

   「うつけ」を強調し敵を油断させる為とも言う。

    織田信秀の死が2年も3年も伏せられていたとしたのなら、もうひとつ別の意味合いが見えてくる。

    信長は古いしきたりや儀礼が嫌いかのように思っているひとが多い。

    たしかに新し物好きであるし、室町幕府のしきたりをことごとくうち破っている。

    だが、キリシタンを保護したけれど神社・仏閣を廃したわけではない。

    桶狭間の戦いでは熱田神宮に勝利を願い、岐阜の名を冠するのに僧呂に知恵を乞う。

    斎藤道三との会見や将軍への拝謁など、儀礼やしきたりを軽んじているわけでは決してない。

    むしろ、儀礼の意味を充分熟知していたのではないか。

    織田信秀の法要が2年も3年もあとに行われ、しかもそれが喪を秘せたことの意味がないままであったら。

    つまり、喪を秘せたが、ばればれである。

    さらに家督をすぐ嫡男たる信長に継がせなかった為に、外敵ならいざ知らず「家督争い」という、

    内憂までつくってしまったとしたら。

    信秀の法要は儀礼というより茶番である。




家督相続


    信長は家督を争うため兄弟や叔父を手にかけた。

    そう伝えられている。

    それが信長=冷酷と言われるひとつの理由であろう。

    私、一個人の見解では、信長はなにも家督を争うつもりなどなかったのではないかと思う。

    弟・勘十郎信行を憎んでも嫌ってもいなかったのではないかと思う。

    (勘十郎信行が父・信秀や母・土田御前の愛情を一心に受けていた為、嫉妬していたという説もある。)


    信長がすんなり家督を継いでいれば、たとえ「うつけ」と呼ばれても当主としての威厳と才覚に、

    家臣たちは気づきひれ伏したであろうことは、その後の歴史が証明している。

    もし仮に、父・信秀が家督を信行や他の兄弟に継がせていても、それに従ったのではないか。

    (もちろん、分家となった信長が、父・信秀がそうであったように主家を追い越してしまうかもしれないが。)

    信長の実力と技量が未だ理解できぬまま、信長の「うつけ」をあやういものと感じ

    勘十郎信行を新当主に担ぎ出したのは母・土田御前でも信行自身でもない。

    柴田勝家、林兄弟らが信行を新当主に担ぎ出したのも信長の技量をはかりかねなかったからである。

    本来、家臣が当主の技量をあれこれ計るのはよくない。

    それだけの余裕を与えたのは、紛れもなく家督を継ぐまでの空白期間、喪を秘せた期間である。

    家臣に不安を生じさせ、兄弟の仲を裂き家臣団に亀裂を生じさせた、父・信秀の死とその喪の秘。

    それをかしこまって法要を営むことに腹を立て、唯一、父にぶつけたものが抹香だったのだろう。






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