マイナー武将列伝・織田家中編 




 前田 兼利 
 まえだ かねとし 
 生没年   15??〜1558   主君・所属   織田信清・織田信賢 
主な活躍の場  浮野の戦い  
 
 
 左馬允? 右馬允?
 文献には前田兼利よりも前田左馬允 (右馬允) として登場する方が多いかも。
 一説に前田利家の実兄と書かれた書もあるらしい。
 (前田銃造氏所蔵系図という。)
 また別に『尾張國誌』には前田氏の項に 利家の兄を左馬允と云ふ という記述も見られる。
 一般的には前田利家の兄は蔵人利久、三右衛門利玄、五郎兵衛安勝とされ 左馬允(右馬允)の名は見られない。
 左馬允と書かれた文献 (『尾張國誌』『織田軍記』) もあれば右馬允とする文献 (『尾張群書系図部集』『織田信長家臣人名事典』) もある。
 どちらかが誤記であろうか?
 ともかく実兄か否かは定かではない。
 
 一般的には前田利家の父・前田利昌の弟、つまり叔父とされる。
 荒子前田家(前田利昌)を離れ、犬山城主織田信清に仕えた。
 のち岩倉城主織田伊勢守信賢の軍奉行になったという。
『織田軍記』の記述には 前田左馬允と云ふ者、元は犬山の侍にて、隠れなき武辺の者なり、 近年は岩倉に仕えて武者奉行をしけるが と見える。
 犬山の侍は犬山城織田信清の、岩倉は岩倉城織田信賢の事であろう。
 
 永禄元年(1558)、織田伊勢守家の家督相続を巡り信安・二男信家父子と嫡男信賢が相争う。
 当主の織田信安が嫡男信賢を嫌い二男信家に家督を譲ろうとした為に事は生じた。  織田信賢は父信安を追い岩倉城とその支配圏を手中に収めた。
 また織田信賢は美濃の斉藤義龍と組み、織田信長にも対峙した。
 そして信長vs信賢の浮野合戦(七月一二日)が起こる。
 この時、信長の家臣土倉四郎兵衛に討たれ討死にした。
 朝からの合戦に戦い疲れ遂に・・・とある。
 
 実はこの時、信長方の加勢に旧主織田信清の犬山勢も加わっている。
 さらに前田兼利が討たれた後、前田利家の弟佐脇良之が武功を挙げていた。
 最期は旧知の元同僚や実弟等と(前田兼利が利家・良之の兄とすれば)戦った事になる。
 因果な事だ。
 
 
 
  補足     
  <<参考>>
  『信長公記』『尾張群書系図部集』『尾張國誌』『織田信長家臣人名事典』『織田軍記』
  (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) 

 
 



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