武将列伝番外編・メジャー列伝 




 前田利家 
 まえだ としいえ 
 生没年   1538〜1599   主君・所属   織田信長・羽柴秀吉 
主な活躍の場   
 
 
 前田利家。 孫四郎、又左衛門。 幼名犬千代。 秀吉麾下で羽柴姓を賜る。 
 尾張国荒子に居城を置く前田利昌の四男。
 はじめ信長の小姓として仕える。
 
 前田氏の発祥は系図の上では「菅原道真が太宰府に流された後もうけた二人の子のうち兄が前田を、 弟が原田を称した。
 この前田の子孫が美作で繁栄し、さらにその子孫佐広が尾張に住み着いた」とされる。
 でも、信用しないほうがいいでしょう。
 前田氏の発祥は一般に美濃国安八郡とも尾張国海部郡とも言われています。
 確実であろうことは利家の祖父あたりから。
 前田利隆(利家の祖父)の後を子の蔵人利昌が、さらにその子(利家の兄)蔵人利久が嗣いだ。
 つまり、利家は庶流になるはずだったのであるが、永禄十二年(1569)信長の命により 兄利久にかわって前田家の家督を継ぎました。
 利久が病弱で戦には耐えられそうにく嗣子もいなかった為とされています。
 実は嗣子はいたのですが実子ではなく養子でした。
 かの有名な(?)前田慶次郎利益です。
 慶次郎については又、別の機会にということで、ここは本編の主人公・利家で進めていきます。
 
 先に書きましたが、前田家は織田家に従事しており利家は信長の小姓として仕えることとなりました。
 当時は未だ、犬千代という幼名でした。
 尚、弟の佐脇藤八良之も同じく信長に小姓として仕えていました。
 天文二十一年(1552)萱津の戦いで初陣。
 以後、稲生の戦い、浮野の戦いと戦功をかさねていきます。
 ところが、ある日。
 信長に仕える同朋衆の十阿弥を、こともあろうに信長の目前で斬ってしまい、勘気を被り織田家を追放 されてしまします。
   (時期には諸説ありますが、永禄二年頃と思われる。) 
 
 牢人の身となった利家は信長のもとへ戻れるように苦心します。
 永禄三年(1560)、今川義元が尾張へ侵攻してきました。
 桶狭間の戦いです。
 この戦いの概要は皆さんもご存じのことと思いますし、詳細は諸説みだれているので省略致します。
 この時、利家はまだ信長に赦されておりません。
 しかし、利家は勝手に参陣したようです。
 この時、敵の首を3つ討ち取ったと言われていますが、信長はそれを無視し功績を認めなかった。
 そしてこの後も、戦の度に利家は勝手に参陣して闘ったようです。
 翌四年(1561)森部の戦いで挙げた戦功を認められ、やっと帰参が叶いました。
 
 やがて、利家は赤母衣衆に抜擢され、家督を継ぎ、柴田勝家の与力として北陸方面を担当。
 本能寺の変後、賤ヶ岳の戦いを経て羽柴秀吉のもとに降り、秀吉の片腕として腕を奮い五大老 の地位に登りました。
 
 ひとつ、不思議に思うことがあります。
 前田利家は加賀・能登・越中に領地を得、子の利長とあわせ百万石の文字通り北陸の太守と なったわけですが、それが利家の戦功に見合うとまでは思えないのです。
 もちろん、利家自身の働きはめざましいものがあり、ケチを付けるわけではありませんが、 百万石に値するのか? と、言うことです。
 その石高は戦国の世であれば独立した戦国大名に匹敵し、徳川の世であれば諸藩随一である。
 秀吉の太っ腹的恩賞の結果ということも大きな理由であろうが、それだけではあるまい。
 五大老の地位に上り詰め(さらに加えるならば家康と共に大老の筆頭格である)たのは、秀吉の信頼 とともに彼の人望にもその理由があるのではないだろうかと思う。
 
 秀吉の死後、家康が急速に支配力を増していった頃、反家康派の本当の頼みの綱は利家ではなかった のでしょうか。
 歴史の流れは家康派・反家康派というだけにとどまらず、文吏・武闘派など様々な利害関係から 関ヶ原の戦いへと導かれていきました。
 利家がもう少し長生きをし、反家康派・秀吉恩顧大名を糾合しておれば、また違った展開になったのかも しれません。
 
 政治力・戦術戦略・調略技術、それらすべてに家康を下回るかもしれないが、人を統合しうる人望は あったのではないかと思う。
 
 先のエピソードで信長の怒りを買い追放されたとき、それまで親しかった知人は誰も利家の元へ 寄らなくなったという。
 柴田勝家と森可成、その他数人のみが、かわらなく訪れてくれて有り難く思うと共に、人間は窮地に 追い込まれないと真の友人とのつき合いが解らないと悟った。
 それゆえ、人と人とのつき合い、絆を大切にしたのではないだろうか。
 それが、信頼を産み、人望となり、加賀百万石へと導いていったのではないだろうか・・・と思う。
 
 やや、贔屓目な見方かもしれませんね。  
 

  補足   
        期間限定 前田特集
 
 
  父 ・前田蔵人利昌。(縫殿助、利春とも)
 長兄・前田蔵人利久。
   (荒子城主であったが病弱な為、信長の命により弟利家へ譲った)
    前田慶二郎利益の養父。
 次兄・前田三右衛門利玄(三左衛門とも)
 三兄・前田五郎兵衛安勝
 次弟佐脇藤八良之
 末弟・前田右近将監秀継
 姉妹・加藤隼人佐延隆妻・奥村助右衛門宗親妻・ 
    寺西九兵衛松秀妻・前田源助妻(後/高畠石見守定吉妻)
 
 兄?・前田右馬充兼利
    利家の叔父であるが異説に兄とある。(『織田軍記』)
 
  子 ・利長・利政・利常・利孝・利豊
 女子・幸(前田長種妻)・粛(中川光重妻)・麻阿(豊臣秀吉室加賀殿)・
    豪(豊臣秀吉養女/宇喜多秀家妻)・与免・菊(豊臣秀吉養女)・
    千世(細川忠隆妻のち村井長次妻)・福(長好連妻のち中川光忠妻)・
    保智(篠原貞秀妻)・喜意・?・斉
 
  <<参考>>
  『信長公記』『織田軍記(總見記)』『寛政重修系図諸家譜』『織田信長家臣人名事典』
  (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) 

 
 



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