マイナー武将列伝・織田家中編 




 前田利久 
 まえだ としひさ 
 生没年   15??〜1583   主君・所属   織田信長・前田利家 
主な活躍の場  荒子城主・金沢城代 
 
 
 蔵人 。
 前田蔵人利昌の長男で前田利家の実兄。
 (前田家系譜は上記「前田利家」項を参照下さい。)
 
 病弱であったとも伝わる。
 男子もなく養子をとった。
 それが前田慶次としても有名な前田利益(利太)である。
 
 養子の実父は滝川益氏。(滝川一益説もある。)
 前田利久が滝川慶次郎の器量を見込んで養子にしたと伝わるが、経緯の詳細は定かではない。
 前田利久の妻は滝川益氏(益重)の妹。(娘という説もある。)
 前田利利久の妻の視点で見れば同じ養子をとるのであれば血の繋がらない者よりも実の甥(若しくは弟)を貰った方が気も休まるのであろう。
 
 しかし、永禄十二年(1569)主君織田信長の命により、家督を弟・前田利家に譲ることとなった。
 前田利久には5人の弟がいる。  兄弟がいない、いても不肖な者であるならともかく健全な達弟がいるのをさしおいて他家から養子をとってまで家督を守る必要はない。  ある意味、正論であろう。
 
 また、前田利久・利家の姉は奥村宗親に嫁いでいるが、奥村宗親の妻も滝川家から嫁いでいる。
 前田利久・利家の祖家継ぐは奥村家から養子であり、深い繋がりがあるようだ。
 ここへさらに滝川が連なり滝川-前田-奥村と強固な閨閥が作られる事を嫌ったのかもしれない。
 未だ地域豪族性・独立性の強かった織田家臣団がようやく信長のカリスマ性の元で集結してきたところでもあり 必要以上の家臣団内の派閥発生を恐れたのかもしれない。
 まぁ、考え過ぎかもしれないが。
 
 最も信頼の置ける部下の一人である前田利家に花を持たせたかったのが本音でもあろう。
 
 ともかく上からの命により不本意ながら家督の譲渡を迫られた事には違いない。
 その心境、幾ばくのものであろうか。
 
 この家督継承の際、一悶着あったようだ。
 前田利家が前田利久の居城荒子城を譲り受けに訪れると、荒子城の留守役であった奥村永福がこれを拒んだ。
 主である前田利久から城受け渡しの命を受けていない。
 弟に家督を譲るにしてもまだ二兄三兄の利玄、安勝をさしおいてとは納得できない。
 前田利家は事を荒立てず、清洲の屋敷にいた前田利久に使い出し譲り渡しの誓紙を受け、はじめて奥村永福は門を開けた。
 奥村永福はこの騒動の責任をとり牢人となるが、後、前田利家に仕え良き片腕となった。
 
 また、前田利久の妻はこれに立腹し、城を立ち退く際に城や調度品、道具などの一つ一つに呪詛を投げかけていったという。
 
 それ故、前田利久・利家の兄弟の仲は険悪なものであったとも伝わるが、真実は如何であろう?
 家督を譲った後、前田利久は剃髪し蔵人入道とも呼ばれた。
 だが、前田利家から離れたという事はなく仕えている。
 前田利家が金沢を領有した後、不在時には城代を勤めている。
 
 また家督相続の悶着は皆、周知の事実なので前田利家を持ち上げる為か、皆が前田利久の非難するような言動をした際、 自分の前で兄の批判は慎むようにたしなめた事が「亜相公御夜話」に記されているという。
 もちろん、この書自体が前田利久を持ち上げているという面もあだろう。
 だが、前田利久・利家の兄弟の関係は以降も続いているし、「前田家」としてみれば前田利家が地方の一陪臣の家から 百万石の大家へと家を繁栄させたのである。
 前田家にとっても、これは正しい選択であったと言わざるを得ないであろう。
 確執は前田利久の妻との間にあったのかもしれない。
 
 
 
  補足     
  <<参考>>
  『信長公記』『寛政重修系図諸家譜』『尾張群書系図部集』『織田信長家臣人名事典』
  (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) 

 
 実子無し。養子として前田慶二郎(慶次)利益(利太)
 
      期間限定 前田特集
 



戻 る 織田家中編トップへ戻る