マイナー武将列伝・織田家中編 




 中島豊後守 
 なかじま ぶんごのかみ 
 生没年   ?〜?   主君・所属   織田信清・信長 
主な活躍の場   
 
 
 中島豊後守。 織田信清の家老。 於久地(小口)城主。

 
 於久地城は織田信清の犬山城の南に位置し信長が本拠地の清洲から攻め上る際の防波堤となっている。
 於久地城は古くからあり織田与十郎広近の築城と伝えられ織田和泉守や織田信康 らが城主なってきていた。
 堀が二重にめぐらされ申丸という出城がある強固な城であった。
 中島豊後守がここの城主と『信長公記』に記されているが、『武功夜話』では豊後守の父左衛門で豊後守 は申丸の守将であったという。
 左衛門が豊後守をも名乗っていたのかもしれない。  織田信清の重臣であったことには間違いない。
 もともと中島氏は丹羽郡井上庄を本拠とし織田伊勢守家の被官であったが信清の先代信康の頃、於久地の 地に移り信康に仕えたという。
 織田信清は織田信長の従兄弟にあたる一門衆である。
 信清麾下の将として信長に従軍、尾張上四郡守護代織田信安勢を浮野の戦いで討つ。
 だが信長と信清が不和となり信清は美濃と結んだ。
 これにより信長が犬山勢を攻めるきっかけとなった。
 信長は犬山城の前衛基地たる於久地城を調略しようとするが左衛門は拒否。
 永禄五年(1562)、信長は武力行使に出て於久地城を攻め込む。
 小姓衆を先駆けとして攻め込み惣構をもうち破り乱入。
 双方に多数死傷者がでた。
 殊にこの頃信長が目を掛けていた小姓岩室長門守がこめかみを突かれ討死。  信長はくやしまれたという。
 戦ののものは、於久地城を落とすことが出来ず、兵を引き上げている。
 
 しばらく小康状態が続くが、信長は美濃攻略に備え居城を清洲から小牧山に移転する。
 だがこれは同時に犬山城への牽制ともなった。
 小牧山城から犬山城までの距離、直線にしておよそ10Km。
 清洲城からの距離のちょうど半分である。
 於久地城に至っては、さらにその半分の距離である。
 小牧山城から発した信長軍がわずかの間に城を取り囲むことも出来る。
 援軍を呼ぶ隙すら与えてくれないだろう。
 丹羽長秀を通じて降伏勧告も引き続ききている。
 同じく信清の家老であり黒田城を守る和田新助と相談し共に信長に降ることとなった。
 そして二人の家老と二つの前衛基地を同時に失った犬山城はこれにより開城する。
 
 その後信長の一将として働く。
 大河内城攻めや伊勢長島一向一揆攻め等、和田新助とともに従軍している。
 天正二年(1574)の伊勢長島攻めの後、『信長公記』から名は消える。
   この戦いで討死したのか、この後に家督を譲り隠居したのであろうか。
 『信長公記』では大河内城攻めや伊勢長島一向一揆攻めの記載はすべて中島豊後守・和田新助が対に なって書かれている。  天正六年(1578)に中島勝太という名と和田八郎の名が同時に出てくる。
 勝太と八郎はそれぞれ豊後守・新助の子らであろうか。
 

  補足   
 



戻 る 織田家中編トップへ戻る