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はじめに
(ここで織田信康を「織田家中編」に組み込んだが織田信長の家臣という訳ではない。
織田信長が家督を継ぐ前に討死しているからだ。
「織田家中編」の展開には直接織田信長から禄を得た事のない武将も含む事がありうるとお考え下さい。)
織田信康。与二郎、与次郎。 幼名、不明
法名、白岩。伯岩。 自岩(←誤記か?) 岩=巌を用い「白巌。伯巌」と記す場合も有る。
生母不明。
犬山城主。
織田信秀の弟であり織田信長の叔父にあたる。
織田信秀の兄弟は信康、信光、信実、信次がいる。
この兄弟は皆、武篇者と伝えられている。
国宝である犬山城の築城者とされる。
但し犬山城は改修や増築もされており、現在に残る(つまり国宝である)天守閣は織田信康のものでは無い。
犬山城より南々西、現市役所付近の愛宕神社に木之下城があり、この木之下城を織田信康が居城としていた。
『尾張國誌』に於いて「小口城」の項に
織田和泉守の居城或いは織田与次郎信康ここに住しともいへり。
安土創業録に信秀の舎弟織田与次三郎信康丹羽郡小口の城主又白岩犬山殿といふ、
犬山の城主織田信清の父也。
木之下城も小口城も築城者は織田広近とされるが、「木之下城を築いて居城を移し、小口城を廃城とした」
「小口城は織田広近次いで織田信康、織田敏定などが城主となった」といった文献もみられる。
小口城主織田広近が木之下城を築き居転。
小口城を廃城としたのち、織田和泉守や織田信康、織田敏定等が復興して城とした。(三者の継続は不明)
織田広近の死後?織田信康が木之下城も領有する。
その後、織田信康が現犬山城の山頂に城を築く。
といった流れになるのだろうか。
『言継卿記』において、天文二(1533)年7月11日、織田信秀の代理として清洲城の守護代織田大和守へ赴いたという内容の記載がある。
三郎者去年和談以後、始而織田大和守方へ同名与二郎出頭、云々、仍罷向、云々、
尾張の守護職斯波氏は南北2家に別れ争っていた。
『信長公記』の冒頭もそれを伺わせる一文から始まっている。
去程に尾張国八郡なり。
上の郡四郡、織田伊勢守、諸侍手に付け進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。
半国下郡四郡、織田大和守下知に随へ、上下川を隔て、清洲の城に武衛様置申し、
大和守も城中に候て守立申すなり。
大和守内に三奉行これあり。
織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠、此三人諸沙汰奉行人なり。
上下双方の守護職が上下四郡づつ支配地を分け合いながら、その実、守護の内までも一枚岩ではなかった。
守護代織田大和守と奉行織田弾正忠(織田信秀)の諍いがあり、その和平がなった後の使者として赴いたといことである。
ともかく、これが現在に残る文書のうちで織田信康が登場する最初の文であろう。
天文十一(1542)年8月、三河の小豆坂の戦いに加わる。
天文十三(1544)年9月22日、織田信秀に従い美濃の斉藤道三を攻める。
稲葉山の麓の村を焼き払い町の入り口まで攻め込んだ。
夕刻になり織田信秀は兵を引き始める。
兵が半数ほど引いたところで、斉藤道三の襲撃を喰らう。
斉藤道三の計に嵌ったのだろうか。
『信長公記』にはこの時、兵を5000人、失ったとある。
戦の規模から、少々人数が多すぎる様な感があるが、人数はともかく、被害が甚大であったということが伺われる。
この時、織田勢の宿老も多数、討死した。
先に挙げた三奉行の一人である織田因幡守や、若年の織田信長に付けられた守役の一人、青山与三右衛門の名が討死者の中に名が
本編の織田信康とともに記載されている。
没日、天文十三(1544)年九月二十二日
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