マイナー武将列伝・織田家中編 




 岩室長門守 
 いわむろ ながとのかみ 
 生没年   ?〜1561   主君・所属   織田信長 
主な活躍の場  桶狭間の戦い・於久地城攻め 
 
 
 岩室長門守。 名を重休と書かれた文献もあり。
 岩室氏の詳細について資料不足で詳しくわかりませんでした。  岩室の姓を称する氏族は橘氏、清原氏、蒲生氏などから出ています。  それらのいづれかに繋がるのでしょうか。   (判明次第、追記いたします。)
 
 さて、岩室長門守は信長の小姓として仕ていました。
 永禄三年(1560)桶狭間の戦いの折り、信長が出陣の際に最初に付き従った5騎の小姓衆の一人に あげられる。 (5騎の小姓衆とは他に長谷川橋介、 佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎)
 

 信長と犬山の織田信清の間が決裂したため、信長は信清を攻めることにる。
 永禄四年(1561)まず犬山城の南に位置する犬山城の前衛基地ともいうべき於久地城を叩かなければ ならない。
 まず於久地城を守る中島豊後守を調略しようと試みるが失敗、力攻めとなった。
 小姓衆が先駆けとなり惣構を突破、押し入った。
 だが、この戦いで岩室長門守はこめかみを突かれて討ち死にしてしまう。
 『信長公記』には  「隠れなき器用の仁(有能な人材)なり。  信長御惜し大方ならず。」 と、大層その死を惜しまれたとある。
 
 また『武功夜話』にはこの時、於久地城を守る武将の中に寺沢藤左衛門、酒小藤太ら名うての者がいたが 岩室長門守や市橋伝衛門、伊藤夫太夫らによって長槍で叩き伏せられたという記事もみえる。
 
 ところで、桶狭間の戦いの行であげた小姓衆の一人、加藤弥三郎は加藤順盛 の子であるが岩室長門守の婿となり岩室勘右衛門とも名乗っている。(『尾張國誌』)
 義理の父子という訳であるが、岩室長門守と加藤弥三郎は同じ時期に小姓衆であったということは 年齢もかなり近いのであろう。
 
 岩室長門守の実子は小十蔵。
 
 

  補足   
 岩室長門守の末裔について情報を頂きました。
 鳥取藩岩室家の系図によれば、この家系は岩室長門守の子孫だという事です。
 姓は大江朝臣。
 岩室長門守の父伊賀守は美濃岩室城主として8000石を抱える。(結構、大身ですね)
 
 お知らせいただいた系図の略図を記しますと
 
     岩室氏 系譜 大江朝臣 濃州岩室城主
 
  初代 重利  背武田家移尾州仕織田信公領八千石
  二代 重休(長門守) 高須城代?城主?五千石
  三代 十助重義 播州別所小三郎長治 に仕える?千八百石
      (二代と三代は兄弟) 
  四代 十兵衛重休 仕池田三左衛門尉 荒尾興兵衛隆重(池田家筆頭家老)二百石
  五代 重郎兵衛利休美備前大守松平新太郎光政公 知行二百石
 
 
 
 尚、『織田家臣人名辞典』にれば岩室長門守の子・小十蔵は本能寺の変後、織田信雄に仕え (中略)
 その後、播磨に移ったか、天正十四年十二月十四日、勝茂(木下勝俊)より播磨で百二十石を宛がわれている
                                    (美作古簡集)

 
 と、ありました。
 同系?別系?
 補足すべき情報、また詳しい情報、別情報ございましたらお寄せくださいませ。
 
 



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