武将列伝番外編・女性列伝 




 土田御前 
  どた (つちだ) ごぜん 
 生没年   1512頃?〜1594   主君・所属   織田信秀正室・信長生母 
 
 
 土田治郎左衛門秀久の娘。(異説あり)
 実名は伝えられていない。
 また土田は「どた」と読む説と「つちだ」と読む説があります、ここでは「どた」としました。
 土田氏はもともと美濃国可児郡土田の出身ともいうが清洲の土田という説もある。
 
 土田御前の叔母も織田信定(信長の祖父)に嫁いでいることから、織田家(弾正忠系統)と土田氏のつながりは古くから深いものだったと伺える。
 土田氏は信長の側室にして嫡男信忠など3人の子を産んだ吉乃の生家、生駒氏とも縁戚関係にある
 生駒家広の娘が土田秀久と婚姻し生まれたのが土田御前。生駒家広の曾孫が吉乃。
 生駒家広の娘が土田秀久と婚姻し生まれたのが土田政久、その娘が土田御前。
 という幾つかの家系図が残る。
 どの家系図も土田家と生駒家が交錯してり、両家の密接さが伺える。
 (信憑性は定かではないが土田秀久の祖は近江佐々木氏、建部氏という記載もある)
 (小説家である永井荷風もこの家系の裔とされている。)
 
 織田信秀は男12人・女12人の子をもうけたが、そのうち土田御前を母とするのは 三郎信長・勘十郎信勝(信行)・喜六郎秀孝の3人である。
 (小説・ドラマでは、お市も土田御前の子と設定するものも多いが、はっきりはしていない。
 土田御前は信行を溺愛したという。
 それが織田家臣団の反信長派とあいまって後の信行逆心へと繋がる一因となったのであろうか。
 信行を溺愛することは理解できる。
 だが信行を当主の座につけるために排斥しようとしたのもやはり実子の信長である。
 同じ我が子で有りながら弟を溺愛するあまり兄を排斥しようとする母はこの土田御前に限らず、しばしば 見られる例である。
 弟を溺愛するあまりといっても兄を嫌う程になるためには、それなりの嫌う理由があるであろう。
 土田御前と信長の場合、それは何が原因であったのであろう。
 また、それはいつ頃からそうなってしまったのであろう。
 詳しいことは、わからない。
 いくつかの文献に書かれた出来事から推測することしかできない。
 
 簡単に思い浮かぶのは信長の吉法師時代の評判「大うつけ」である。
 父・秀信の葬儀に際しても信長は袴もせず大刀・脇差しを縄で越しに巻いて現れた。
 この時の信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」−威儀を正した 装いに作法に応じた振る舞いであったという。
 世間の目もわきまえず身勝手・不作法な兄に対して礼儀正しく優秀な弟というところか。
 信長は幼少の頃より那古屋城で育て上げられ、信行は土田御前の元で育て上げられている。
 それが災いしたのであろうか。
 我が子の姿を世間の評判を通してからでしか見ることが出来なくなっていたのではないか。
 信長はただの「うつけ」と言うわけではない。
 「信長十六・七・八までは別の御遊びは御座なく、馬を朝夕御稽古、又、三月より九月までは川に入り、 水練の御達者なり −−−(中略)−−− 市川大介をめしよせ弓御稽古、橋本一巴師匠として又鉄炮御稽古、 平田三位不断召寄せられ兵法御稽古、御鷹野等なり」
 これは『信長公記』の中に信長の「うつけ」振りと一緒に書かれた部分であり、奇抜な格好や振る舞いをしようとも戦国武将としての分別は充分すぎるほど ついていることも伺える。
 信長には信行の他にもう一人に弟、秀孝がいる。
 だが、彼は不幸な事件で命を落とす。
 身内(叔父)の家来によって誤って射殺されてしまうのである。
 参照−−−信長記外伝1巻「守山城」
 この時信行は怒りに燃え叔父の居城(守山城)を襲撃し村落を焼き払う。
 信長も信行同様、守山城へ馬を走らせるが信行が村落を焼き払った事を知ると引き返してしまう。
 信行の行動は戦国の武将として当然の行動であろう。
 誤りとはいえ主筋にあたる自分の弟を分家の家来が殺してしまったのであるから。
 だが信長は武将よりも当主としての行動をえらんだ。
 誤りは誤りである。
 主筋にあたる家の者でありながら誤射されるような行動をする事自体が悪い。
 まして身内であり、我が配下にある城と民である。
 すでに弟・信行が村まで焼き払っている。
 当主としてこれ以上家臣や領民を責めることは出来ぬと考えたのだろう。
 土田御前の心情は如何なるものであったのだろう。
 秀孝の仇を討ってくれた信行を頼もしく思い、信長を弟の敵をも討てぬ「うつけ」と見たか、弟より家臣・ 領民をとる身内に冷たい男と見て取ったのだろうか。
 
 信行は後に反旗を翻すが敗れて謝罪する。
 一度は赦されたものの、再度所領を巡るトラブルから再度逆心ありと信長によって成敗される。
 土田御前がその後、如何なる人生を送ったか。
 詳しく書かれた文献はない。
 
 一度、『信長公記』に登場する。
 天正六年、荒木村重が謀反を起こすと風聞が立った。
 この時、荒木村重の出仕を促す為、 人質として御袋様差上せられ …つまり土田御前を人質として差し出すから出仕せよとうながしたのという記述がある。
 結局、荒木村重はこれを受け入れず、荒木村重の謀反が確定的になるのである。
 荒木村重の謀反には謎が多い。
 何故、謀反を起こしたのか?何を望んでいたのか?
 いろいろ推察は出来ようが、はっきりとしたことは解らない。
 となると …信長が土田御前を人質として差し出すと述べたことは、
  荒木村重を心配し、母親を差し出すことで、信長の心に邪推は無い。(荒木村重に謀反心は無く、信長も疑ってはいない)
  荒木村重の本心を試し、母親を殺す或いは幽閉すれば荒木村重の謀反は確定し、成敗の名目も立つ。
 二通りの見方が出来るが…そのどちらかで、信長が土田御前に対しどの様な気持を抱いていたかもわかると思う。
 だが、これも今では僅かな文言から想像するしか手立ては無い。
 
 本能寺の変の当時は安土城におり、日野城を経て織田信包(信長の弟)の安濃津城に逃れたと伊勢四天王寺(津)の寺伝にあるらしい。
 と、すれば土田御前は安土城、或いは安土城下に住んでいたと思われる。
 その後、『織田信雄分限帳』に登場する。  『織田信雄分限帳』に「安土殿」という女性が記されており、これが信長の正室濃姫であると推察されるが、同様に「大方殿」という名が記されている。  大方殿…となれば、土田御前の事であろう。  織田信雄が伊勢から改易されると織田信包の元(安濃津)へ移り、文禄三年この地で亡くなったと伝えられている。  
 母と子の確執は色々伝えられているが、信長は決して母を(…少なくとも晩年は)憎んでいたという訳ではなかったのだろう。
 
 
 土田御前・大方殿。法名は報春院花屋寿永大禅尼。
 
  補足     
 *  織田信秀 −−− 信長記外伝8巻「父・信秀」参照
 *  織田秀孝 −−− 信長記外伝1巻「守山城」参照
 
 



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