信 長 の 兄 弟 達 




 織田秀孝 
  おだ ひでたか 
 生没年   1540?〜1555   信長の弟 
幼名・別名・官職名 幼名=?。 喜六郎。  生母  土田御前 
 
 織田信秀の八男。
 母は土田御前であり信長・信勝(信行)と同母弟といわれている。
 『信長公記』に登場するのはいきなりその死に際してである。  従って、生前の活躍はよく解らない。
 
 弘治元年(1555)6月の事。
 信長・秀孝の叔父でもある守山城主織田信次が家臣を引き連れ、領内の松川の渡し(現庄内川。  名古屋市守山区と春日井市の境を流れる)付近で川狩(漁)をしていたところ、下馬もせず 単騎で通り過ぎようとした武者がいた。
 これを信次の家臣洲賀才蔵が無礼なりと弓で射ると騎乗の武者にあたり落馬、絶命した。
 そしてその武者の顔をみて初めて、それが秀孝であるとわかったのである。
 織田家当主の実弟である。
 誤殺であろうと当然ゆるされるはずもない。
 信次はそのまま逐電し、家臣は報復を恐れ守山城に立て籠もった。
 事の顛末の詳細は定かではないが、守山城主には信長の弟の一人信時が入り事件は一端幕を閉じる。   (参照:信長記外伝第1巻守山城
 
 『信長公記』にはこの時の秀孝の姿を  「御歳の齢一五・六にして、御膚は白粉のごとく、たんくわのくちびる(丹花の唇)柔和のすがた、 容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも及び難き御方様なり。」  と、記している。
 織田の家系は美男美女と評判高いが、この記載は尋常ではない。
 よほどの美少年だったのであろう。
 
 
  生年を「1540?年」としたのは没年から「御歳の齢一五・六」を逆算したものである。
  これでは1543年生まれの四男信包より生年が早いことになってしまいます。
  秀孝を八男、信包を四男としたのは一般的な通説に従っています。
  実は他の兄弟順にも不明確な点や疑問点も多くあるのですが、
  全ての兄弟順が正確に伝わっていないのでとりあえず、
  この「信長の末裔」の兄弟順は一般の通説の順に従いました。

 
 



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