マイナー武将列伝・織田家中編 




 丹羽氏勝 
 にわ うじかつ 
 生没年   1523〜1597   主君・所属   織田信次・信長・のち徳川家康 
主な活躍の場  守山城籠城 
 
 
 丹羽氏勝。 源六。 右近。 右近大夫。
 丹羽氏識の子。
 岩崎城主。
 
 同じく丹羽姓であるの信長家臣丹羽長秀とは別の流れである。
 
 丹羽氏の祖は一色(源氏)氏で平三郎氏明の時尾張国丹羽庄に住する。
 地名をとり丹羽氏を称した。
 丹羽庄は愛知県西北部にあった。現在の丹羽郡とはやや異なる。
 もともと丹羽郡に属し郡名の元となったが山田郡を廃するにあたり丹羽郡と中島郡の郡界も東にずれ 中島郡に編入されたという。
 現在の稲沢市東部下津から奥田にかけての地かと思われる。
 
 少々話題がそれてしまいました。
 丹羽氏は愛知郡内で和泉守氏従が文明三年に折戸城を建てて以降本郷城、岩崎城へと居を変えます。
 
 丹羽氏勝が『信長公記』に登場するのは天文二十四年(1555)。  信長の叔父の守山城主信次が誤って信長の弟・秀孝を殺害してしまったことによる 守山城籠城の事件の時の事である。
 城主信次に逃げられてしまった守山城に立て籠もる年寄衆の面々のうちに岩崎丹羽源六とある。
 姓に冠した岩崎は「岩崎城主の」という意味であろう。
 信次の家臣であるか与力であったのであろうか。
 この後角田新五の謀反の折りにも絡んでいる。
 
 以降は信長の直臣となったのであろう。
 『信長公記』にも度々名前は出てくるが目立った活躍はみられない。
 
 永禄十二年(1569)伊勢大河内攻めに従軍、元亀元年野田福島攻めなどにも名が見られる。
 天正八年(1580)八月、突如として信長より追放される。
 数日前、佐久間信盛に対し19ヶ条からなる折檻状を付けて追放 したばかりで今度は林佐渡守秀貞・安藤伊賀守親子らとともに追放されたのである。
 先年の反逆行為の罪を問うという名目であった。
 しかし反逆行為というのは守山城籠城の折りの事ぐらいしか思う当たる節がない。
 かと言って25年も前の事を今更持ち出すのはどうも可笑しい。
 この年の四月、丹羽氏勝の家臣が誤って信長の近くへ巨石を落とすという事故があった。
 それを謀反の行為と受け取られたのか。
 多分それが追放の直接の理由であろうと思われるが、本当のところ信長は理由など どうでもよかったのではないだろうか。
 同時に、先の佐久間信盛親子を含めて重臣を追放するなどちょっとやそっとのことではなかろう。
 初めから切り捨てるつもりでいたのだろう。
 その時期も到来し、いい理由付けも出来たことだし…で追放に踏み切られたのに違いない。
 元々虫がすかなかったが働きがいいので人手が揃うまで当分使っておこう。
 または働きの悪さに業を煮やし折檻の意味で追放という罰(永久追放としてではなく)をあたえた。
 そんな所ではないだろうか。

 働きが「いい」「悪い」は信長の主観的なことだろうからどちらともとれる。
 「折檻の意味」とは佐久間信盛への折檻状で述べたように 「死ぬ気で働け・甘えるな」の意味。
 
 追放後は徳川家康に仕えるが、その働きはやはりぱっとしない。
 慶長二年(1597)没。
 
 尚、佐久間・安藤親子らと違い子には累は及ばなかった。
 子(氏次)の働きは良かったのか? 織田信忠に近い位置で働いている。
 男子は勘助氏次、次郎三郎氏重、平八郎、女子(加藤忠景妻)。
 氏次は三河伊保に1万石を賜り大名となる。
 以降、封地石高は変動するが子孫は続いている。
 氏重は小牧長久手の戦いで、平八郎は大和国伏見でそれぞれ討死。
 
     

  補足   
 氏次は氏勝の実子ではなく市岡勘解由盛吉からの養子であるとする文書も見える。
 



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