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吉乃。久庵(久昌庵)
吉野とも書かれる文献もある為「よしの」と読む説もある。
生駒蔵人家宗の娘。
生駒八右衛門家長の妹。
生駒氏は灰と油を取り扱うことを生業としていたようでかなり裕福な家であった。
土田弥平次に嫁いでいたが吉乃が22歳の時に没したため実家である生駒屋敷に住んでいた。
そして織田信長に見初められたという。
土田は「つちだ」か「どた」か?
「どた」であれば信長の生母土田御前の実家と同姓となるが関係は不明。
やがて嫡男奇妙丸(信忠)、二男茶筅(信雄)、長女於徳(五徳)の3人を産む。
一部の書に、濃姫の死後(または追放後)正室となったように書かれているが、それは誤りであろう。
濃姫が生涯正室であろう事は間違いないように思われる。
ただ、正室にも近い扱いを受けていただろうことも思われる。
嫡男を含め3子を産んでいるのだから。
ちなみに信忠は信長の第一子ではないという説もある。
信正という庶長子がいると言われているからである。
普通、側室から生まれてきた子が第一子でも正室に子が産まれれば、正室の子が嫡男となる。
信忠自身も側室の子であるにも関わらず信正を押し退け嫡男と呼ばれることから吉乃が正室にも近い扱い
を受けていたのかもしれない。
また当時信長の寵愛を一手に受けていたと言われている。
3人の子を産んだのは生駒屋敷内であった。
やがて信長がその居城を清洲から小牧に移すと小牧に屋敷を構えそちらに移り住むこととなった。
だが吉乃はこの時病床にあって三度の食事もすすまぬ状態であった。
衰弱しきってとても小牧まで行ける状態ではない。
信長は5・6騎の供のみ従え生駒屋敷へと足を運び病床の吉乃を見舞っていた。
そして信長が用意した輿に乗って小牧山御殿まで行くことが出来た。
その後、何度も信長は足を運び見舞いにきたというが、永禄九年(1566)遂に帰らぬ人となった。
未だ、三九歳の若さであった。
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