続・織田一族と津田一族  
   
 さて、その弐にて織田一族と津田一族についての話をしました。
 先にこちらを読まれた方、是非巻三もお読み下さい。
 ご存じのかたございましたら、お教え願います。
 
 その弐概略
    織田一族の中には津田姓を名乗る者が多い。
  信長の政策の中で子弟を地方豪族・国人と養子縁組させ取り込んでしまう、
  といったものがあるが、津田を名乗る一族の本拠地と家督がわからない。

 

 
 
  津田一族
   
 「信長・友の会」会長の成谷透氏よりメールを頂きました。
 一部、抜粋させていただきます。
 
 > 織田家は越前織田荘の神官の出自だと言われておりますが、
 > 信長以前は恐らく藤原姓を名乗っておりました。
 > 信長自身も藤原姓で署名していました。
 > ところが信長はある時期から平家を称するようになりました。
 > その時に創作した逸話は次の通りです。
 > 近江(or越前or伊勢???)の津田某に平家の落胤とその母が寄宿し、
 > 母は津田某に後家に入りました。
 > そこへ越前の神官である織田某が津田某を尋ねた際、
 > その平家の落胤を見るやその高貴さに惹かれ、養子に貰いたいと言い出しました。
 > 津田某が了承したため、その平家の落胤は織田姓になったとのことです。
 > 明らかに嘘と判るような話ですが、無理にでも平家になりたかった信長の逸話作りです。
 > このことからも判るように、織田と津田とは古くから親戚並の付き合いをしておりますが、
 > 恐らく織田の古い時代の分家ではないかと思います。
 > 或いは、津田の分家が織田か?
 
 つまり、平家某が津田家にはいり、さらに織田家の養子になった。
 
 さて、その辺の所を、2人の作家はこう書いている。
 
 平清盛の孫、資盛は平家一門が都を捨て西海へ落ちようと言う瀬戸際に、 一人の愛人を近江の津田の庄に身を隠させた。
 その愛人に資盛の子が生まれていたからである。
 子は男の子。
 女の名は伝わっていないが、一説に三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪のいう。
 ともかく、彼女は資盛の指示に従い近江津田の庄に身を寄せた。
 だが、女手ひとつ。
 資盛も戦死、平家一門も滅びたとあって、津田の庄の土豪に求婚され妻となった。
 このとき資盛の子も共に津田の家に入り継父に養われ育った。
 この少年を越前丹生郡織田の庄、織田神社の神官斎部某が養子にもらい受けた。
 少年は名を親真と名乗り、彼が織田一族の祖となる。
 そして彼の子孫常昌が神社の名、織田を姓に冠して織田を名乗り、 越前守護斯波義重に見出され武士としての織田家を築く。
          『その後の織田一族』 杉本苑子 より索引

 天下取りの覇業を行った3人、信長・秀吉・家康はみな愛知県出身であり近江にちかい。
 また近江とその近隣出身者をブレーンに従えている。
 たとえば蒲生賢秀・氏郷、石田三成、長束正家、増田長盛、藤堂高虎。
 近江と言えば、近江商人。 甲賀(伊賀)忍者。木地師・鍛冶・山人。修験者・・・
 行商人として各地をまわり、山に籠もり道無き道を行く。修験者や木地師・鍛冶。
 伊賀・甲賀の忍び。 城の縄張りに欠かせぬ技術、人々。
    そんな影のネットワークが近江にはあるのではないか。
 織田一族の中でそんな影のブレーンたる位置を占めるのが津田一族であろうか。
             『戦国三ファミリー 影のネットワーク』 童門冬二 より索引
 
 長くなるので、細かな話は割愛してます。
 
 
 結局、津田一族は織田家の発祥に深い関わりをもっているであろう事はうかがえる。
 だが、信長の時代に津田一族はどう関わってきたか、 どんな役割を担ってきたのかは、未だよくわからない。
 童門氏が言うように、諜報を担い影で支える−−− (ちょっと時代劇がかって言うならば、裏柳生!の)−ようなものなのか。
 
 いづれにせよ、まだまだ謎の多い、不思議な一族である。
 もうしばらく、この謎を追ってみたいと思う。
   もし、どなたか情報をお持ちでしたら、またお教えください。
 
 最後になりましたが、成谷様他、貴重なご意見ありがとうございました。

 

 
 

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