信 長 の 兄 弟 達 




 織田信包 
  おだ のぶかね 
 生没年   1543〜1614   信長の弟 
幼名・別名・官職名 幼名=?。 三十郎。 信良、犬老斎。 上野介、左近衛中将  生母   
 
 織田信秀の四男とされる。
 系譜などを見ると確かに男子4番目に記され、どの参考資料をみても四男である。
 だが。
 信長の兄弟の生まれはほとんどの場合定かではない。
 信長・信包・秀孝・長益の4人ぐらいなものである。
 だから本当に系譜順に生まれているのかというと、?である。
 ちなみに秀孝の生年は1540年とされる。
 出展が何かは不勉強な為、不明。(陳謝)
 だが秀孝の没年が1555年ということは解る。
 この時、齢15〜6(『信長公記』より)というから、やはり1540年頃か。
 ならば、1543年生まれの信包よりも兄ではないか。
 と、思うのだが、それらの資料にはそのことには触れていなかった。
 まだまだよくもって解らない兄弟達だ。
 
 それはさておき、本題。
 信長が北伊勢へ侵攻したとき、伊勢諸領主の懐柔策の一環として養子縁組というのがあった。
 (懐柔とはいうもののほとんど家の乗っ取りみたいなものであるが。)  信包も豪族・長野氏の養子となる。
 長野氏は藤原南工藤氏の流れをくむといわれる、北伊勢に拠点を置く豪族である。
 室町時代の初め、南北朝と呼ばれた時代がある。
 伊勢の国司北畠氏は南朝方の雄であり、周囲の豪族もこれに従っていた。
 長野氏も南朝に属していたが、途中から北朝に転じた為に北畠氏と相争う立場となった。
 それから何世代も抗争は繰り返されたが第15代当主藤定の時に北畠具教と和解。
 具教の子藤教を養嗣子とし家督を継がせ北畠の一門となったのである。
 だが藤教は器量人ではなかったようだ。
 もっとも長年対立していた敵の家の当主に収まることは、余程の切れ者でなければ務まらなかっただろう。
 信長の伊勢侵攻により次々と北伊勢の土豪が信長に降伏していく中、藤教は家臣団からの不審と対立から 長野家を追放されてしまう。
 かくして、長野家は信長の傘下に汲みし、信包が養子縁組という形で新当主として迎え入れられた。
   伊勢はこの後も信長の侵攻は続き、遂には伊勢国司をも併呑するのであるがやはり養子縁組という形で 家を乗っ取っている。
 ちなみに信長の二男信雄が北畠氏、三男の信孝が北畠氏の縁故でもある有力な神戸氏の跡を嗣いでいる。
 伊賀侵攻、伊勢長島攻めなどにも参加。
 決して秀でた武将でもなく派手さもないが、かといって凡庸という訳でもない。
 堅実な性格なのであろうか。
 一門衆の要として活躍。
 信忠のように大軍を率いる総大将を演じることもなければ、信雄のように功を焦ることもなかった。  
 本能寺の変の折りには伊勢上野城に居た。
 清洲会議でも目立った言動はなかったようだ。
 渦中の信雄・信孝を除いた一門衆の筆頭とも言うべき人物である。
 なにも「儂が家督を継ごう。」とでも言わない限りは発言力はあったはずである。
 特に波乱もなく羽柴秀吉に従った。
 自分では兄の偉業は継げない。
 甥たちでは信長の器量に満たない。
 そういったことが解っていたのだろうか。
 
 安土から脱出してきた信長の生母・土田御前を迎え入れる。
 天正十六年(1590)の北条氏攻め、いわゆる小田原征伐の際に北条氏からの助命嘆願を斡旋したことから 秀吉の機嫌を損ねる。
 実直な人柄か。
 これも災いしてか、文禄三年(1594)、近江へ移封。
 2万石への減封である。
 この時、剃髪して犬老斎と号した。
 慶長三年(1598)丹波柏原3万6000石を得る。
 秀吉の信も回復したのか、秀頼に近侍するまでになった。
 関ヶ原の戦いでは西軍に属するも所領は安堵される。
 が、その後病死。
 系譜には毒殺(片桐且元)とある。
 
 長男三十郎信重は伊勢林城主となるが元和元年改易。  尚、遺領は三男の信則さらに孫の辰之助信勝が継いだ嗣子がなく、 信包の四男弥十郎信当(重直)が3000石のみ分与される。
 この子孫が幕臣として栄えた。
 柏原の遺領はしばらく間を置いた後、信雄の子孫が移封された。
 二男は僧籍に入り雪庭(雪貞)と号する。 安土總見寺の二世住持。(四世?)
 また信包の娘の一人は秀吉の側室となり姫路殿と呼ばれた。
 
 



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