信 長 の 兄 弟 達   甥 編




 織田(津田) 信澄 
  おだ のぶずみ 
 生没年   1558頃〜1582   信長の甥 
幼名・別名・官職名 幼名=坊丸。 七兵衛。 信重。  生母   
 
 織田信長の弟、信勝(信行)の嫡男。
 信勝(信行)は信長が家督を相続したのち対立、謀反を起こし一度は赦されたが、後、謀殺された。
 父の死後、柴田勝家に養育されたという。
 生年は定かではないが永禄元年(1558)頃とされ、父の顔も知らぬママに育ったようである。
 
 信勝の謀反の原因はふたりの実母土田御前が奇行の多い信長を嫌い、信勝を偏愛したために家督相続をめぐり 家中が分裂し為に起きたと言われている。
 だが、まだまだ謎の多い部分もあり真相は定かではない。
 
 私は信長は決して母や弟を憎んでいたわけでは無いように思う。
 何故?と問われても明確な回答はできないが。今のところただ、そんな気がするとだけしか述べられない。
 
 さて、信澄の養育者は柴田勝家であることは既に述べたが、勝家は先代織田信秀からも信勝の後見を命じられている。
 親子2代の後見をしていた訳だ。
 
 今度こそ育て方を間違えるな。信勝の子を立派な武将に育てよ。
 そんな思いが信長にはあったのであろうか。
 それにしても一度は信長に抗したとはいえ、勝家は織田家中の重鎮であることには変わりない。
 その勝家に任せたのだから、信長も信澄を謀反人の子としてではなく、連枝の武将として見ていたのであろうと思う。
 
 『織田信長家臣人名辞典』によれば、近江の磯野員昌の養嗣子とされたとする文献が幾つかみられるという。
 信長は子や弟たちを主な家臣や投降した武将の養子として与えている。
 与え…というのは人質という意味ではない。
 その家督を嗣がせる事を前提としたもので新参勢力を一門に加え織田家中を強固なのにするという狙いがある。
  (悪意をもって述べるならば家の乗っ取りでもあるが)
 信長の二男信雄は伊勢の北畠氏、三男信孝も伊勢の神戸氏。弟信包も伊勢の長野氏を嗣いでいる。
 四男秀勝(これは秀吉自ら所望したとも伝わるが)は新進気鋭の羽柴秀吉の元へ。
 磯野員昌は浅井長政の家臣で信長に投降した将である。投降後も幾度かの戦で活躍するが突如逐電してしまう。
 この一件にも謎が多い。
 
 柴田勝家や丹羽長秀、明智光秀らと行動を共にしたこともあるようだが、特に誰かの軍団に与力として付けられていたわけではないようである。
 「遊撃部隊」と表現する解説書も多いが多分そのようなものなのだろう。
 天正十年(1582)5月、織田信孝、丹羽長秀等とともに四国遠征の命を受ける。
 翌月、大阪で待機中に本能寺の変が起こる。
 この時、信澄は光秀に通じていたとして信孝、丹羽長秀攻められて大阪城千貫櫓で討死。
 
 これは、ほとんど信孝、丹羽長秀の早合点だと指摘されている。
 信澄は光秀の娘を娶っていた。
 それが信澄が光秀に与していると噂立った原因であろうが、もしそうならば本能寺の変に呼応して なんらかの動きを見せたであろう。
 また光秀の別の娘玉子も細川忠興に嫁いでいる。
 細川ガラシアとしての名の方が著名であろう。
 細川藤孝・忠興も光秀に与していたわけではない。
 光秀には何らかの期待があったのかもしれないが、事前に通じていたとは考えにくく、よしんば光秀から 打診があったとしてもこれを無視するか細川忠興の様な態度をとたのではなかろうか?
 信澄の父を信長が殺した。
 だから信澄は信長を恨んでいたはずだ。…そのように思われていたのだろうか?
 だか、『信長公記』等で見る限り信澄は信長の忠実な家臣であった。
 信長もそれ相応の対応をしていたようだ。
 
 遡って天正九年(1581)1月の馬揃えで信長の一族が参列している。
 「御連枝の御衆」として 「中将信忠卿 馬乗八十騎 美濃尾張衆  北畠中将信雄 馬乗三十騎 伊勢濃尾張衆   織田上野守信兼(包) 馬乗十騎   同三七信孝 馬乗十騎   同七兵衛信澄 馬乗十騎   同源五(後、有楽斎)  同又十郎(信長弟 長利)   同勘七郎  同中根(信長弟 信照) …(以下略)」  『信長公記』 に 挙げられている。
   嫡男信忠、次男信雄、信長のすぐ下の弟信包(信勝の次)、三男信孝についで五番目に名を挙げられている。
 連枝の…一門の序列としてはNo.5と言っても間違いとは言えぬ位置である。
 信長の信頼をも充分得ていたのではないかと考える。
 
 攻め討たれたのは冤罪であろう。  
 
 
 



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