信 長 の 兄 弟 達 




 織田信広 
  おだ のぶひろ 
 生没年   ?〜1574   信長の庶兄 
幼名・別名・官職名 幼名=?。 三郎五郎。 大隅守。  生母  
 
 織田信秀の長男である。
 天文九年(1540)、信秀は三河に侵入し松平家の安祥城を攻略。
 信広はこの安祥城の城主として配される。
 安祥城は松平信康(徳川家康の祖父)が居城を岡崎に移すまで代々拠点にしていた城で松平家にとって 要の城の一つであった。
 西三河と尾張を結ぶ土地にあり、三河攻略の橋頭堡となりえる城である。
 当然、信秀は信頼の置ける城将を置くことを念頭に入れたと思う。
 従って自分の息子である信広を安祥城に入れたのであろう。
 信長も生まれて間もなく那古屋城を与えられたが、那古屋城は信秀の拠点となって久しく、その周辺も 信秀に逆らえるだけの対外勢力はない。
 だが、安祥城は那古屋城とは違い周囲はすべて敵地という前線である。
 幼少の息子を配したとは思えないから、この時既に元服し信秀の片腕となり得るような働きもしていた のだと思われる。
 そこから考えれば信長とは十歳以上離れていたのかもしれない。
 
 しかし天文十八年(1549)、今川家の傘下に組みした松平家は今川家の力もかりて安祥城を奪回。
 信広も捕らわれの身となる。
 かねてより織田家の人質となっていた松平家の御曹司竹千代(後の徳川家康)との人質交換によって 信広は尾張に帰還する。
 これは信広の軍歴にとって大きな汚点となったのかもしれない。
 後の織田家の家督争いに際し、家臣団は信長派・信勝派に別れたが信広は一人で奮起したようである。
 家臣団からみても首領と仰ぐには器量不足と思われたのであろうか。
 それとも只単に庶子という理由だけであろうか。
 
 今しがた述べたが、信秀の死後、織田家の家督は信長が嗣いだが、不満を持つ家臣は離反し、また信長の 弟信勝を担ぎ上げて謀反を起こした。
 信広はそれとは別に自身で謀反を企てる。
 美濃の斎藤氏と共謀して信長が出陣したら空となった清洲城を奪いとり、さらに信長の背後から襲おう というものであったが事前に察知されてか失敗に終わる。  しばらく対立も続くようだが、やがて赦されて信長の元で働くこととなった。
 
 信長の名代をも務めたりして一門の要としての働きも見せている。
 天正二年(1574)7月、伊勢長島の一向一揆攻めで一揆勢の最後の反撃いよって戦死する。
 
 尚、津田姓を称し津田三郎五郎、津田大隅守と書かれた文献などもある。
 娘があり丹羽長秀の室となる。(深光院)
 



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