薄濃のこと

 
   薄濃のこと
 
 
 
 
 天正二年正月。
 宴の席で信長は奇妙な肴を並べた。
 朝倉義景・浅井久政・浅井長政の頸である。
 信長は三人の頭蓋骨で金盃をつくり皆に酒を呑ませた・・・。
 と、有名な話である。
 
 でも。
 妙である。
 『信長公記』に記されているその様子。
 
    一、古今承り及ばざる珍奇の御肴出て候て、又御酒あり。
      去年、北国にて討ちとらせられ候、
    一、朝倉左京太夫義景首
    一、浅井下野    首
    一、浅井備前    首
      已上、三ッ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。
      各ゝ御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。

    
 と、あって頭蓋骨で金盃の話題はない。
 
    信長公御機嫌宜しく三献の御酒宴あり、其後又此肴にて、一献めぐらすべきの由御諚ありて、
    黒漆の箱を取り出され、列座の中に指置き給ふ、
    柴田勝家是を見て、いかなる御肴にて御座候ぞと申上ぐる、
    信長公自身其箱の蓋を御ひらき成され候へば、金銀の箔にて濃付けたる白頸三つあり、
    各札を付けられて、朝倉義景、浅井久政、同長政三人の頸なり、
    出仕の面々皆以て、あはれ是はよき御肴と申上ぐる、
    信長公御諚には、何れも大身小身の面々多年軍功を励まし、忠節を画すに依て、
    此の三敵を亡ぼし、今春は心安く是を肴にして酒を酌むの時に至れり、何れも各の満足、
    我等が大慶之に過ぎずと仰せられ、それを肴にして列座の面々又盃をめぐらさる

 
 と、『織田軍記』では、もう少し詳しく掲載されているが、こちらにもない。
 
 
 頭蓋骨で金盃をつくり皆に酒を呑ませたという話は後世に出来た作り話であると思う。
 信長は宿敵の頸を宴の肴に用いた。
 そこに薄濃が施されていた事が「珍奇の御肴」だったのだろう。
   薄濃・・・頸を漆で固め金泥などで薄く彩色したものだという。(『織田公記』角川文庫版注釈より)
 
 頸を肴に等と言うと気味悪くも思えるが、当時の感覚ではどうなのだろう。
 今の私たちは遺体というものを目にするのは身内・友人の葬式くらいである。
 公家・商人はともかく武士等は戦のたびに自ら頸を取っているのである。
 気味悪い等とは言ってられない。
 とった頸にしても、そのままにしておくわけではない。
 名のある武将(名のありそうな武将)の頸ならば化粧さえも施し主に見せる。
 同じ頸にしても見栄えの良い方が名の有りそうな武将の頸のようで評価にも影響することもありうる。
 
 野戦の最中、陣中に大将頸が運ばれることもあるだろう。
 それを祝いに酒を呑むこともあろう。
 テレビや漫画等では三つの薄濃を前に武将達の顔色が変る様を描いたりしている。
 はたしてどうであったのであろう。
 「何れも各の満足」は信長が恐ろしくそう振舞ったというのであろうか?
 でも『信長公記』が書かれたのは信長の死後、『織田軍記』に至っては百年後の書物である。
 なにも信長を憚る必要もない時代のものであるから非難するなら、その様な記載でも良いはず。
 
 薄濃にしたのは信長の「遊び」の様にも感じる。
 頸を何ヶ月もそのままの状態で保存できる訳でもない。
 なんらかの方法で保存するのであれば、いっそ薄濃にして皆の好奇の目に晒してやろう。
 朝倉義景も素直に従えばよかったものを。
 約定を破り自ら死地さながらの恐れを与えた浅井父子。
 その為に死なずにすんだはずであった多くの戦死者。
 よほど憎憎しさもあったであろうし、それは信長の家臣の多くの者の中にも同じ思いの者はいたであろう。
 宴で晒し者にしてやろう・・・と。
 
 『第六天魔王と信長』(当初『第六天魔王信長』)で作者藤巻一保氏は、 それが真言立川流の髑髏本尊を示している様に紹介されていますが、それも果たして???
 
 髑髏・薄濃が当時の武士の間でそれほど奇奇怪怪なものであったのかどうか?
 現代人の感覚とは異なるものであろうと思う。
 
 兎にも角にも、冒頭で述べた様に金塗りの髑髏盃は有名な話。
 有名な話ではあるけれども、史実として、それが行われた行為なのかは疑問視しています。
 
 
    参照文献
     『織田公記』角川日本古典文庫
     『通俗日本史・織田軍記』早稲田出版部

     『第六天魔王と信長』藤巻一保著:悠飛社
     『第六天魔王信長』藤巻一保著:学研文庫
 
 
 
 
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