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前田利家の実弟、佐脇良之。
『信長公記』に於いて、永禄元年(1558)7月22日、浮野の戦いでの功名で登場。
永禄三年(1561)5月19日、桶狭間の戦いでは信長の小姓衆として名が記されている。
赤母衣衆にも抜擢されたようである。
永禄十二年(1570)8月、大河内城攻めにも従い、尺限廻番衆にも名を連ねている。
その次に名が登場するのは元亀三年(1572)12月22日、三方が原の戦である。
三方ヶ原の戦は徳川家康と武田信玄との戦いであるが、織田信長からも佐久間信盛・平手汎秀・水野信之が派遣されていた。
佐脇良之も佐久間等と一緒に与力として加わり戦ったのであろうか?
でも、そうではないらしい。
『信長公記』に記されているのは
去程に信長公幼稚より召使はれ候御小姓衆長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎の四人、
信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑み奉り遠州に身を隠し居住候らひし。
(中略)
尾州清洲の町人具足屋玉越三十郎とて年頃廿四、五の者あり。
四人衆見舞いとして遠州浜松へ参り候折節、武田信玄堀江の城取詰め在陣の時に候。
定て此表相働くべく候。
左候はゞ一戦に及ぶべく候間、早々罷帰り候へと四人衆達て異見候へば、是迄罷参り、
か様の処をはづして罷帰り候はゞ、以来口はきかれまじく候間、四人衆討死ならば同心すべき
と申し切り、罷帰らず。
四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。
佐脇良之は織田信長の下を去り、信長の意思や命とは別に行動し三方ヶ原の戦いに加わったのである。
では、佐脇良之は、いったい何故、織田信長の下を去ったのか?
「信長公の御勘当を蒙り」とは何の事か?
はっきりとした文章は見当たらない。
このメンバーを見ていただきたい。
長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎。
桶狭間の合戦の折、最初に信長に付き従って出陣したメンバーから岩室長門守を抜いた四人である。
実は、岩室長門守は永禄四年(1564)に於久地城攻めで討死していた。
つまり勘当を蒙り家康の下に身をよせたいた四人は信長の腹心中の腹心である同僚仲間だったのである。
加藤弥三郎について。
加藤弥三郎の父は加藤図書助順盛。
熱田の豪商加藤家本家(東加藤)の次男であった。
商人の子が何故、信長の小姓に?武士に?
と思われるかもしれないが、商人の子が武士になることも別に珍しい事ではなかった様だ。
商人も農民も戦が始まれば徴用される事もある。
戦の無い時期に田畑を耕すことや商いに精を出す武士もいる。
江戸時代の事ほど、身分階級がはっきりと区別されていたわけでは無い様だ。
加藤家の家系図(『尾張群書系図部集』)、加藤順盛の祖父景繁の脇には
濃州岩村落城後浪人し、尾州熱田に蟄居す
と、あり元々は武家あった様だ。
また順盛の嫡男順政は長久手の戦いにも参加しており、孫の辰千代は本能寺の変の折、二条御所で討死している。
加藤家に伝わる文書『熱田加藤家史』では、加藤弥三郎は永禄六年(1563)、信長の重臣通盛を斬って出奔したと記されているという。 (『織田信長家臣人名辞典』より)
それはおかしい。
永禄十二年(1569)8月大河内城攻めの際、四人共、尺限廻番衆として名が出ている。
出奔してはいないのだ。
『織田信長家臣人名辞典』ではこれを年数の記述の間違いとし、大河内城攻めの後の出来事としている。
また『信長公記』に人名の出てこない通盛を赤川景弘に比している。
真偽はともかく『熱田加藤家史』に伝わる記述から推察すれば、永禄十二年8月以降、元亀三年までのうちに加藤弥三郎は信長の重臣を切り殺してしまい信長の勘当をうけ出奔してしまったのであろう。
長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨の三人はこの事件にも加担、共に通盛(赤川景弘?)を斬ったのか?
もしくは弁護して共に信長の機嫌を損ねてしまったのか?
思い起こせば、前田利家が信長の重用する同朋衆の十阿弥を斬り捨て信長の下を出奔した事にも似ている。
さて、ともかく四人は信長の下を去った。
武士を捨て蟄居するか、利家の様にじっと機を待つか、他家へ仕えるか?
遠州は言わずと知れた信長の同盟者家康の支配地である。
勘当を者を軽々しく主従関係を結ぶ事は、あまり思わしい事ではない。
敵の敵は敵・・・とまでは言わなくとも、信長の機嫌を損ねる事は間違いない。
そこで思うのですが、信長の勘当は完全に絶縁するといった厳しいものでは無かったのかもしれない。
利家の時の様に時がたてば、そして機を見れば、何かを手土産に帰参も叶う。
帰参が叶わずとも他家に仕え名を上げることも赦してくれるであろう。
ひょっとしたら佐脇良之等も、信長自信も徳川家康もその様に受け止めていたのではないかとも思えるのですが。
もちろん、自棄になって死に場所を求めて三方ヶ原に向かった・・・とも考えられなくも無い。
ならば「四人衆討死ならば同心すべき」にも辻褄が合うのですが、すこし見方を変えて
「討死覚悟で功を挙げなければ帰参は望むべくも無く」「一人でも帰参が叶えは本望」と考えていたのかもしれない。
たまたま居合わせた具足屋玉越三十郎もそんな四人の心にうたれたのかも知れないと思う。
見舞いとして来たのであるから旧知の間柄だったのであろう。
「年頃廿四、五の者」とあるから四人と同年代か少し若いくらいであろうと思われる。
尾張では気の会う仲間だったのかもしれない。
もうひとつ。
四人が家康の下に身を寄せた理由はなにか?
前田利家の様に「功を成せば帰参が叶う」「赦免される」事を考えたのであれば戦の匂いを嗅いで来たのだともとれる。
他の大名よりも徳川家康とその家臣にも繋がりがあった事も理由にあげらえるだろう。
さらに徳川家康が松平竹千代として織田家の人質であった頃、彼の養育を任されていたのは熱田加藤家。
つまり加藤弥三郎の父順盛であった事も一つのポイントであろう。
加藤弥三郎と徳川家康は幼馴染の間柄であったのかもしれない。
『織田信長家臣人名辞典』はまた『熱田加藤家史』に家康から三千貫の禄を貰って仕えたと記載されていることを紹介し、
「与えられたというが、この禄は大きすぎよう」とコメントしている。
確かに、加藤弥三郎が徳川家康に使えたという事実を誇張して伝え残した事も考えられる。
そういうことはよくあることですし。
でも、事実、三千貫の禄を貰ったという事を完全には否定できないとも思う。
もしかしたら四人併せて三千貫だったのかもしれないが、この記載からは四人全員が禄を貰ったのかどうかも定かではない。
『信長公記』では玉越三十郎の件を
爰に希代の事り
『織田軍記』では
さすが信長公剛将の御下より出でたる町人なりけるよと、其比諸人ほめ合いけり
と、記しています。
信長や前田利家の元にも詳細はすぐに伝わった事でしょう。
参照文献
『尾張群書系図部集』続群書類従完成会:刊
『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館:刊
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