本能寺の変 戦死者一覧



 
 
  本能寺     諱    生没   父(一族)  略歴 
馬廻          
 
 大塚 又一郎
    
 おおつか
 またいちろう
    ?〜
   1582
  
 
 生駒親正の娘を妻とした。御殿内にて討死。
 平尾 久助
    
 ひらお
 きゅうすけ
    ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。御殿内にて討死。
寺外より懸込んだ者          
 
 小倉 松寿
    
 おぐら
 まつじゅ
    ?〜
   1582
  
 
 信長の側室であるお鍋の方の側室になる前に生まれた子。従って織田信高信吉の異父兄となる。
 本能寺外で宿泊していたが知らせを聞いて本能寺に駆け込み討死。
 湯浅 甚介
    
 ひらお
 きゅうすけ
 直宗  1545〜
   1582
  
 
 桶狭間の戦にも参加している古参の家臣である。馬廻である。
 本能寺外で宿泊していたが知らせを聞いて本能寺に駆け込み討死。
面御堂の御番衆          
 
 伴 太郎左衛門
    
 ばん
 たろうざえもん
    ?〜
   1582
  
 
 信長の馬廻に伴十左衛門あり、一族かと思われるが詳細不明。
 御厩より切り出て討死。
 伴 正林
    
 とも
 しょうりん
    ?〜
   1582
  
 
 天正七年の安土相撲に参加し抜擢され召し出された。
 御厩より切り出て討死。
 村田 吉五
    
 むらた
 きつご
    ?〜
   1582
 
 
 天正六年の安土相撲に参加し選抜された関取。
 御厩より切り出て討死。
 矢代 勝助
    
 やしろ
 しょうすけ
    ?〜
   1582
  
 
 『織田信長家臣人名辞典』にて関東出身の馬術家であろうと推察されている。
 『甫庵信長記』では奥州の馬の名手とあり、信長の家臣では無かった様にも受け取れる。
 逃げよと言われたがあざ笑って御厩より切り出て討死とある。
同朋衆?          
 
 一雲斎 針阿弥
 
 いちうんさい
 しんあみ
    ?〜
   1582
  
 
 名前から同朋衆である様だが、政治面での側近の性格を持つ。御殿内にて討死。
小姓・小々姓          
 
 飯河 宮松
    (宮松丸)
 いいかわ
 みやまつ ?
    ?〜
   1582
  
 
 足利将軍家側近に飯川肥前守信堅(信賢)あり。苗字から察して子・孫・縁者の可能性はあるが不明。
 御殿内にて討死。
 伊藤 彦作
 
 いとう
 ひこさく  
   ?〜
   1582
 
 
 信長の馬廻衆に伊藤彦兵衛がいるが繋がりはあるのか否か?詳細は不明。
 御殿内にて討死。
 今川 孫三郎
 
 いまがわ
 まごさぶろう
   ?〜
   1582
 
 
 詳細不明だが今川氏豊の孫、或いは曾孫という説あり。
 御殿内にて討死。
 魚住 勝七
 
 うおずみ
 しょうしち
   ?〜
   1582
 
 
 信長の馬廻衆に魚住隼人正がいる。縁者と思われるが詳細は不明。
 御殿内にて討死。
 種田  亀
 
 おいだ
 かめ
   ?〜
   1582
 
 
 美濃国内の信長家臣に種田正元・正隣・正安父子あり。縁者と思われるが詳細は不明。
 御殿内にて討死。
 大塚 孫三
    (弥三)
 おおつか
 まごぞう
   ?〜
   1582
 
 
 信長馬廻衆に大塚又一郎、信長に取立てられた関取に大塚新八、津田一安朱印状に記された大塚太郎左衛門がいるが関連は不明。 御殿内にて討死。
 小河 愛平
 
 おがわ
 あいへい
   ?〜
   1582
 
 
 信長馬廻衆に小河源四郎あり、親族と思われるが関連は不明。
 御殿内にて討死。
 落合 小八郎
 
 おちあい
 こはちろう
   ?〜
   1582
 
 
 村井貞勝の元に落合長貞があるが、関連は不明。
 落合将監安親・康親、落合重清が織田家臣にあり、関連は不明。 御殿内にて討死。
 金森 義入
 
 かなもり
 ぎにゅう
 
  
 ?〜
   1582
 金森長近?
 
 『信長公記』に於いて本能寺の御殿内にて討死とあるが、同池田本に於いては二条御所で討死とある。
 金森長近次男長則が本能寺変時、二条御所で討死と伝わっており同一人物ではにかとの見解あり。
 『信長公記』『甫庵信長記』の二条御所の場面に金森長則の名は無い。
 柏原 鍋丸
 
 かしわばら
 なべまる
   ?〜
   1582
 
 
  詳細不明。
 御殿内にて討死。
 柏原 (弟)
 
 かしわばら
 
   ?〜
   1582
 
 
 『信長公記』等に「柏原鍋丸兄弟」とあるのみで名も定かではない。
 御殿内にて討死。
 狩野 又九郎
 
 かのう
 またくろう
   ?〜
   1582
 
 
  詳細不明。
 御殿内にて討死。
 久々利 亀
     (亀丸)
 くくり
 かめ
   ?〜
   1582
 
 
  詳細不明。
 御殿内にて討死。
 菅谷 角蔵
 
 すがや
 かくぞう
   ?〜
   1582
 菅谷長頼
 
 『甫庵信長記』に菅谷長頼の子息とある。しかし、同書には本能寺で死者名に菅谷角蔵の名は無く、二条御所での戦死者に名を連ねている。いかなる事だろう?
 薄田 与五郎
 
 すすきだ
 よごろう
   ?〜
   1582
 
 
  詳細不明。
 御殿内にて討死。
 祖父江 孫
     (孫丸)
 そぶえ
 まご
   ?〜
   1582
 祖父江秀重
 
 祖父江秀重の次男。祖父江家は尾張津島社の神職にあるといい、信秀の頃より代々織田家に仕える。
 御殿内にて討死。
 高橋 虎松
 
 たかはし
 とらまつ
   ?〜
   1582
 
 
 天正七年、安土の長谷川秀一邸を与えられたという。 『信長公記』に天正九年、稲葉刑部・祝弥三郎とともに知行を与えられたとある。
 本能寺の変、御台所の口にて大勢と戦い比類なき奮闘した力尽きて討たれた。
 武田 喜太郎
 
 たけだ
 きたろう
   ?〜
   1582
 下方弥三郎
 
 下方弥三郎の子で武田左吉の養子になったらしい(『織田家臣人名辞典』)
 御殿内にて討死。
 平尾 久助
 
 ひらお
 きゅうすけ
   ?〜
   1582
  
  
 詳細不明。『甫庵信長記』にこのは名は無く、変わりに馬廻として平尾平助がいる。 同一人物の誤記か別人か?不明。
 御殿内にて討死。
 森  乱丸
 
 もり
 らんまる
 成利 1565〜
   1582
 森可成
 
 森可成三男。森蘭丸として著名だが、良書に蘭の文字が無い為、「乱」を用いた。
 御殿内にて討死。
 森  力丸
 
 もり
 りきまる
  1567〜
   1582
 森可成
 
 森可成五男。乱の弟。
 御殿内にて討死。
 森  坊丸
 
 
 ぼうまる
 長隆 1566〜
   1582
 森可成
 
 森可成四男。乱の弟。
 御殿内にて討死。
 山田 弥太郎
 
 やまだ
 やたろう
    ?〜
  1582
 山田弥太郎?
 
 『信長公記』に記載は無く『甫庵信長記』による。信長馬廻に山田弥太郎があり、その子か? 或いは馬廻の山田弥太郎を小々姓と記載した『甫庵信長記』の誤りか? 御殿内にて討死。
御中間衆          
 
 岩
    
 いわ     ?〜
   1582
  
 
 『日吉神社文書』に「地下人中宛御中間岩書状」がみられる。他、詳細不明。
 御厩にて討死。
 熊
    
 くま     ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。御厩にて討死。
 新六
    
 しんろく     ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。御厩にて討死。
 藤九郎
    
 とうくろう     ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。
 御厩にて討死。
 藤八
    
 とうはち     ?〜
   1582
  
 
 『中村林一氏所蔵文書』に「藤八宛朱印状」があるが同一人物か否か、並びに詳細不明。
 御厩にて討死。
 虎若
    
 とらわか     ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。御厩にて討死。
 彦一
    
 ひこいち     ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。御厩にて討死。
 弥六
    
 やろく     ?〜
   1582
  
 
 詳細不明。御厩にて討死。
御小人衆    
 
 小駒若
    
 ここまわか     ?〜
   1582
  
 
 天正九年の馬揃の折、行縢持ちを努める。他、詳細不明。御厩にて討死。
 小虎若
    
 ことらわか    ?〜
   1582
 虎若  詳細不明。御厩にて討死。
 
本能寺の死者名には書物によって若干違いが見られます。
『信長公記』の記述を最優先に『甫庵信長記』『織田軍記』の記載を加え『織田信長家臣人名辞典』参考にしました。
 
 
  主な参考文献 『信長公記』   (角川文庫版)
    『信長記』   (現代思想社)
    『織田信長家臣人名辞典』   (吉川弘文館)
    『増訂織田信長文書の研究』   (吉川弘文館)
 
 
 
 
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