篠木於松。 曽呂利惣八の子と伝わる。
曽呂利惣八は本名篠木惣八(宗八)。
尾張を本拠にした乱破(忍)とも盗賊とも伝わる人物である。
悪行を重ねた獰猛な強者であったといい、その死に際しても棺を挙げる際、晴天が俄に黒雲を呼び豪雨、
雷鳴を轟かせたという奇怪な伝承も残している。
その曽呂利惣八に一子あり、於松という。
織田信長に仕え、本能寺へも同行していたという。
本能寺の変において皆が果敢に闘っているのに於松はこれを抜けだし密かに郷里へ逃げ帰り、隠れ住んだ
と伝えられている。
卑怯者と言ってしまえばそれまでだが、事実ならば本能寺の包囲網を抜け出した男である。
流石は曽呂利惣八の子というところか。
但し、疑問も残る。
曽呂利惣八の没年は延徳三年(1491)。
本能寺の変は天正十年(1582)。
この間、約90年。
ならば於松は齢90を越しながら信長に近仕していたのだというのか。
曽呂利とは惣八に付けられた俗名であるが、この当時ほかにも曽呂利を称する人が居たそうである。
とすれば、曽呂利惣八の二代目三代目を名乗った人物もいて、於松はその子?
曽呂利惣八の一族は曽呂利姓を名乗る者もいて於松はその一族の一人?
単に孫・曾孫の伝承上の誤り?等々、仮説は色々たてられる。
もうひとつ、民間伝承であり他に信憑性の高い文献が見あたらないこと。
全くの眉唾ものということもありえる。
於松という人物が実際に存在して何らかの理由で里に隠れ住んでいた。
その理由を口からでまかせに曽呂利云々、本能寺云々と語ったことが延々と語り継がれてきたということも
ありえるであろう。
結局、よくわからない人物である。
尚、曽呂利という名。
曽呂利新左衛門が著名である。
和泉の堺に住み、豊臣秀吉にも召し出された頓知諧謔の人であるが、この人も民承主体の人物で実在した
かどうかを問われる男。
曽呂利惣八や於松と関係があるのかどうか?
その実在・正体・本当に家臣か?何もかもあやふや。
多分、誤伝偽伝であろうと思うが。
この項は付録と思って頂きたい。
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