マイナー武将列伝・織田家中編  

 
 
 
堀田道空・堀田道悦
    
 生 没 年      主君・所属   織田信秀・信長・斉藤道三など 
 活躍の場など   
 
   
 堀田道空。
 織田信長を主役とする歴史小説・ドラマではお馴染みの人物である。
 斉藤道三の腹心であり、信長と濃姫の婚姻に…或いは信長と道三が会見する場面に…
 道三の最期まで付き従う姿を描き出されている。
 
 だが…どうもこの堀田道空。正体が全く解らない。
 史料には殆ど登場せず…斉藤道三の腹心とされながらも美濃側の史料がない。
 最も信頼できる史料として登場するのは『信長公記』だけである。
 それも僅か二場面、四ヶ所のみ。
 
 一つはお馴染みの正徳寺で信長と道三が会見する場面。
 
    (信長は…) 
      御堂へするすると御出あつて、縁の御上り候処に、春日丹後・堀田道空さし向かひ 
 
    (信長が…) 
      又是も知らぬかほにて御座候を、堀田道空さしより、是ぞ山城殿にて御座候と申す時 
 
    (そして) 
      去て道空御湯付を上げ申候 
 
 と、信長が淡々と会見に臨み、堀田道空が信長の言動に翻弄されながらももてなす様が描かれている。
 
 そして道空本人は登場しないものの 
    (信長は…) 
      津嶋にては堀田道空庭にて一おどり遊ばし、それより清洲へ御帰りなり。 
 
 今度は信長が道空の屋敷で遊ぶ様が…。 
 この二場面、四ヶ所である。
 
 本当に堀田道空は斉藤道三の家臣だったのか?
 ふと疑問も湧いてくる。
 
 信長と道三が会見する正徳寺は尾張にある。
 現在の愛知県一宮市。
 道空の屋敷は津嶋…現在の愛知県津島市。
 この時代の勢力図は今日の国境の様に明確な区分けは難しい。
 川や山などがあれば境は付けやすいが、時折、その境を飛び越えての主従関係が結ばれることもある。
     (たとえがは悪いかもしれないか暴力団とされる組織の勢力図の様だ。)
      ○○市は○○組で△△町は△△一家などと綺麗に縄張りが敷かれるわけではない。)
 だから尾張の西南寄りの領地をもつ堀田家が美濃の斉藤氏と主従関係が不自然だという訳ではない。
 現在内陸部にある津嶋は当時はもっと伊勢湾に近く港を利用した海運の町であり津嶋神社の門前町でもあった。
     (津嶋以南は江戸時代以降に埋立・干拓が進んできた。)
 
 
 
 そこで仮説。
 信長の父祖が津嶋の利権を得て力をつけた様に、堀田家は津嶋から得た経済力を盾に美濃と尾張国内の各勢力とをバラスをとりながら栄えていたのではないか?
 その中で美濃の斉藤道三の絶頂期には道三と密接に繋がり、織田信秀を牽制する。
 また織田信長と道三を繋げる事で津嶋から美濃への陸路を確保し津嶋の繁栄を図る。
 道三死後、道三寄りだった道空は斉藤義龍に疎まれてしまう。
 今度は信長のみを援助する事で信長に尾張統一と美濃進出を援助し、津嶋の今後を願った。
 あくまでも仮説仮説。
 
 
 
 真実はよくわからないのだが、堀田道空…津嶋の堀田正定なる人物であるとされる。
 堀田正定は入道号を道悦と名乗っている。
 道空と道悦…同じく同時代の堀田家に道友もいる。
 道空の「道」は偏諱の様に道三の「道」ではないか?とも思ったが、堀田道友と斉藤道三の繋がりはなく。
 堀田正定の父の名が正道であるので、「道」はもともと堀田家に通じる文字であったかもしれない。
 
 
 通説の様に堀田道空を堀田正定(道悦)が同一人物であると仮定して以降進める。
 堀田正定。生年不明。孫右衛門。諱は他に正貞。入道号は道悦。
 
 
 堀田氏は正定7代の祖・之高が罪ありて尾張中島郡堀田邑に配流されたことから始まる。1
 之高の母は今川(蒲原)氏兼の娘という。2
 今川氏兼の弟・今川仲秋は一時期、尾張の守護であった。
 之高の13代の祖は紀長谷雄。 之高は紀氏か? 『張州雑志』記載の系図では「紀之高」から始まっている。
 之高は大橋貞豊の娘を娶り子・正泰が生まれ、正泰は矢田に移り、以降、堀田氏を称す。
 大橋貞豊は津嶋の大橋氏の一員だと思われるが、誰かは不明。(調査不足)
 
 正泰は南北朝時代における四條畷の戦に参加し戦死。
 その子・正盛(之盛)は大橋貞高の娘を娶っており、大橋氏との繋がりの強さが伺われる。
 正盛の子・正重。  
 正重の子・正綱は早尾城主(現:愛西市)。 3
 早尾城主は橋本大膳の城であるが一代限りの城である。
 早尾城の西脇にも城跡があり、これを早尾西城、橋本大膳の城を早尾東城とする説があり早尾西城の主は不明とか。
 堀田正綱であろうか?
 尚、正綱は正重の子・正時の子(つまり正重の孫)という説もある。 1
 
 正綱の子・正純。
 正純の子・正道から織田信長の父信秀に仕うという記載が『尾張群書系図部集』『尾州雑志』にある。
 この正道の子が正定(道悦)である。
 
 『張州雑志』記載系図の正定は 
 
       尾州津嶋ニ在居 織田信長幕下ニ属ス 
       後、入道シテ閑居ス 
       豪富之家トナレリ今其宅跡津嶋ニ有リ 
       此翁ヨリ堀田之氏族諸国ニ分レ繁栄ス 
 
 信長に仕えていた堀田道空・或いは堀田正定(道悦)の逸話は定かではない。
 先に挙げた「信長が道空の屋敷の庭で踊った」という逸話くらいか。
 
 堀田正定(道悦)も大橋重一の娘を娶っている。
 大橋重一は大河内氏に嫁いだ大橋定安の娘の子で大橋定安の養子として入った。
 大橋重一が大橋家の家督を継いだ跡で、大橋定安に男子太郎が生まれる。
 この太郎が信長の姉・妹(?)クラの方を娶る大橋重長である。
 
 
 直接に堀田正定(道悦)の関与したものではないだろうが『尾州雑志』の「堀田道悦筆記」に以下の記載がある 
 
       (前文略 … 家系記載)        此度四家七名字之者、筋目一ツ書上之旨、依仰渡、承候儀如此。 
       大橋之家者委細記置候、仍如件。 
        永禄二年四月 日   堀田孫右衛門正定 
       坂井右近殿  
 
 え〜。…私にはよく解らないのですが…  
 「四家七名字」とは南北朝時代に由来し、南朝の尹良親王・良王親王を助け功を挙げた四家・七氏を指す。
 四家は大橋・岡本・恒川・山川。
 七氏は堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村。
 大橋定安の祖父・大橋信重は良王親王の子神王丸が大橋家を継ぎ名を改めたとある。 1
 この大橋信重(神王丸)の母は大橋定省が南朝の宗良親王の皇女桜姫を妻とし生まれた子である為、大橋家と南朝の繋がりは非常に濃い。 
 堀田正泰も四條畷の戦で戦死したとあるが、南朝方であったのだろう。
 
 ここでの良王親王・良王親王…この方もよく解らない存在。
 宗良親王の第二子が尹良親王と伝わるが実在しないという説もあり。
 
 
 話を堀田正定(道悦)に戻す。
 天正十五年(1587)七月八日没。
 
 
 
 
 補 足
  
 
   
 堀田正定(道悦)に二子あり。
 正則と正高。
 正則の子・之重は尾張藩に仕える。
 正高の子・正勝は大坂で討死。
 以降、正実-正武-正直-正季-正雄-正資-正時と続いていくが詳細は不詳。
 正実からは母方の名字伊藤に替えるが正時の代に堀田に戻す。
 
 堀田正定(道悦)に弟あり。正英。
 堀田正定(道悦)隠居後、堀田家の跡を継ぎ主流はこちらに流れる。
 正英の子・正利。小早川秀秋に仕える。
 正利の子・正盛。将軍徳川家光に重用される。
 佐倉藩の藩主、老中をつとめ堀田家は幕府内でも高い地位を占め、子孫も重要なポストを歴任していった。
 
 注 釈
 
   
1  … 『尾州雑志』 
2  … 『尾張志』 
3  … 『尾張郡書系図部集』 
 
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
  『信長公記』   太田牛一  (角川日本古典文庫版)
  『復刻改定補 尾張國誌』   (東海地方史学協会)
  『織田信長家臣人名事典』第2版   高木昭作 監修 谷口克広 著 吉川弘文館
  『尾張郡書系図部集(上)』   加藤國光編 続群書類従完成会
  『尾張郡書系図部集(下)』   加藤國光編 続群書類従完成会
  『尾張志』           愛知博文社 (復刻:マイタウン)
  『尾州雑志』          (愛知県郷土資料刊行会)
     
    その他、参考文献紹介頁参照
 
 



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