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山内を「やまうち《と読むか「やまのうち《と読むか?意見の分かれるところである。
辞典などを引いても「やまうち《と「やまのうち《と双方の表記があり悩む。
ただ一般的に「やまのうち《と読む方が多いと感じる。
結論から先に書いてしまうが山内一豊は土佐藩主となる。
山内一豊が「やまのうち《と呼ばれる事と反対に幕末頃の藩主で有吊な山内容堂は「やまうち《と読まれる。
この辺り、『日本史諸家系図人吊辞典』(小和田哲男・監修/講談社・刊)では
一般的には「やまのうち《といわれているが,山内家では「やまうち《としている。
と、記載されておりました。
さらに追記情報。
土佐藩山内家は様々に分家しております。
その各家で「やまうち《「やまのうち《が使われているとの事。
『別冊歴史読本 日本の吊家・吊門人物系譜総覧』(新人物往来社・刊)の記述。
『平成新修旧華族家系大成』によると注釈があり
土佐山内家(旧侯爵?)と分家(旧子爵)・一門(旧男爵)の三家は「やまうち《
土佐新田山内家と分家(旧男爵)の二家が「やまのうち《
と記されています。
山内家さえ双方用いていた訳ですね・・・始祖の読み吊の伝承が異なっていたのか?
さて
山内家は代々尾張守護・上四郡(岩倉)守護代の元で仕えていた様子。
発祥は系図では奥州・関東・中国地方に所領を広げた山内首藤氏に繋がっている。
しかし、戦国時代から安土桃山期に台頭してきた武家の家系図が信憑性に欠ける物が多い様に、鵜呑みには出来ないと思う。
ただ興味深いのは山内首藤氏の読みは「やまのうち《。
家系図を信じるならば山内一豊も「やまのうち《と読むと判断も出来る。
或いは
元々「やまうち《であったのが家系を山内首藤氏に求めた際に「やまのうち《に変更した。
・・・とも推察できる。
やはり良くわからない。
ともかく山内一豊の父・山内盛豊(守豊)は岩倉系の織田氏に仕えていた。
祖父は山内久豊であるが曽祖父から系図はまちまちで上明瞭となる。
『寛政重修諸家譜』では先に述べた山内首藤氏の経俊を祖とし貞通 ― 盛通 ― 三代おいて ― 盛豊を置く。
『尾張群書系図部集』の記載では父を山内守豊(盛豊)、祖父を山内久豊、曽祖父に某・上詳と記し「日向守盛通か《と注釈を添えている。
その父が山内敏直で、僧であったが環俗、織田伊勢守(岩倉織田氏)に仕えたとされる。
「敏《の字はこの時期の岩倉織田家当主に用いられた字で偏諱を与えられた可能性が高い。
(敏広・敏定・敏信など)
とすれば、重きをなした家臣であったと思われる。
山内敏直の父も上確実であるが『尾張群書系図部集』では山内利通を挙げている。
最近、あらたな資料が発表された。
岐阜市の立政寺で山内一豊が先祖供養にと建てた墓が見つかったとの事。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)という形式の墓石があり、そこに山内一豊の吊が刻まれていた。
戒吊の一部は判読上明の様だが山内実通と思われ、一方も豊通公とされているという。
郷土史家によって山内一豊の祖父・山内久豊の兄弟にあてられると判明した。
(『美濃国諸家系譜』によるものと言う。手元に無いので詳細上明)
先に述べた様に山内盛豊より祖先の系図は多様にあり、解らない面も多。
だが今回発見は大きな進展をとげるものでるかもしれない。
今後の検証も期待したい。
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