|
長定。与十郎。
一般的に前田与十郎として登場。
前田長種の父。
代々、与十郎を称しているようである。
前田利家の家系との繋がりは不明。
前田利家の家系と同じく菅原道真の子孫と称し梅鉢紋を用いるので同系列かもしれないが、
菅原道真の子孫という事自体、前田利家の家系も共に懐疑的な目で見るべきであろう。
実際の発祥については尾張国海東郡前田村説と美濃安八郡前田村説とがある。
地理的に尾張かもしれないが、美濃斉藤氏一族の前田氏は天神(菅原道真)を崇拝し梅鉢を家紋とするそうである。
『尾張群書系図部集』より
案外、前田利家系と共に美濃発祥かもしれない。
具体的に文献に登場するのは文明十七年(1485)前田与十郎利治が下之一色村城主として。
与十郎利治は縫殿助、佐治、忠治とも系図に記されている。以下、『尾張群書系図部集』より
与十郎利治の子は、与十郎仲利。下之一色村城主。
与十郎仲利の子は、与十郎種利。同じく縫殿助。下之一色村城主。荒子城主。
そして与十郎種利の嫡男が与十郎種定である。
さて、ここで。
益々、前田利家の系列との関わりが気に掛かる。
種定の弟には与平次利定(長俊)がいる。
利治−仲利−種利−利定と「利」の時が四代に渡って通じている。(通字という)
前田利家の系列は家継−利隆−家春と続き、家春の子は
利昌(家則、利春とも)と兼利と利則。
兼利の子に利春。
利昌の子が利久、利玄、安勝、利家、良之、秀継。
通常、通字が用いられるのは同族か主従関係であることが多い。
また種定の嫡男が代々与十郎を名乗るように、前田利家の家系も蔵人と名乗る事が多い。
さらに家継、家則は縫殿・縫殿助をも名乗っている。
やはり血縁関係のある同族と見てもよいのだろうか?
『尾張群書系図部集』記載の系図では家則の項には「荒子村城主前田与十郎家臣、後に荒子城主となる」と記されている。
これを見る限り、与十郎の系統が主、利家の系統が従である。
家則の代に独立したということなのであろうか?
さて、家系に付いて長々と書きましたが、前田種利個人の事。
『信長公記』の首巻に以下の記述があります。
翌日御出陣候はんの処、一長の林新五郎・其弟美作守兄弟不足を申立、林与力
あらこの前田与十郎城へ罷退候。御家老の衆、いかが御座候はんと申候へども、
左候共苦しからずの由、上総介殿仰せられて候て御働き。
今川勢が攻めてきて信長は盟友の斉藤道三からの援助も得て立ち向かおうとする。
筆頭家老の林秀貞兄弟にも出陣を要請したが両名とも不服を申し立てて、与力である前田与十郎の城へ引き籠もってしまった。
他の家老達は如何したものかと信長に問うたが信長は、いっこうにかまわぬと捨て置き出陣したという事である。
(一長=長は「おとな」。宿老家老の意。平手政秀以降、林秀貞が一の「おとな」となった。)
(筆頭家老自身が命令無視というあるまじき行為をしたわけであるが、これを捨て置くという事で)
(既に双方の関係は破綻してることも伺える)
ここに登場する「前田与十郎」が前田種利の事であろう。
「あらこの前田与十郎城」とあるから荒子にある前田与十郎の城と解釈されるが、荒子の城と言えば前田利家の系列が代々城主を勤めていたのでは?
この当時は前田家則もしくは利久が主ではなかっただろうか?
荒子村にある別の城ということだろうか?
近隣には前田城、下之一色城という前田与十郎が居城とした城もあるが「荒子村」ではない。
誤記と考えるべきか?
はっきりとは、わからない。
まぁ、兎に角。
両前田家はかなり密接な関係にあったと見ても間違いないのではなかろうか?
同族縁者と見てもよいのだろうか?
また、「林与力」とあるから林秀貞の家臣ではなく織田信長の直臣であると考えられる。
『尾張群書系図部集』本能寺の変後、織田信雄に従い、佐久間正勝の武将にあてられ蟹江城の守備についたことが書かれています。
他の書物ではこれを、子の前田長種にあてています。
ここに登場する前田与十郎は種定の事でしょうか?種利?長種の事でしょうか?
申し訳ないです。
少々、勉強不足です。
ともかく、その件は前田長種の項で紹介いたします。
どちらにせよ晩年は蟹江城にあったのでしょうか。
妻は織田玄番秀敏の子ではないかと伝わる。
| |
|