マイナー武将列伝・織田家中編 




 堀 直政 
 ほり なおまさ 
 生没年   1547〜1608   主君・所属   織田信長・堀秀政 
主な活躍の場  堀秀政の臣・天下の三陪臣 
   
 三介。三右衛門。監物。
 
 初め奥田を名字とした。
 元は尾張国奥田村の生まれで父七郎五郎(直純或いは利直)の代に美濃国茜部に住する。
 堀秀政の従兄という。(一部、伯父とも。)
 主の堀秀政より直政の方が年長である。
 
 秀政とともに信長に仕えた。
 この時、伯父の毛坊主という人物が仲立ちしたと伝わる。
 毛坊主の諭しによって先に出世した方に仕えると約束を交わし、秀政が信長の寵愛をより承けた為、 直政は家臣として秀政に仕え、さらに名字も奥田から堀へと替えた。
 (『織田信長家臣人名事典』では、これはよくある逸話だと言い、 創作である可能性も挙げてる。)
 ちなみに毛坊主は『寛政重修系図諸家譜』(以降『寛政家譜』と略)に見える。脚疾ありて歩行かなわざるにより…僧となる。
 
 その逸話の真偽の程は別として、堀−堀(奥田)主従は堅く結ばれていたようである。
 「天下の三陪臣」という言葉があるそうです。
 上杉家の直江兼続・毛利家の小早川隆景・そして堀家の堀直政。
 
 伊賀国亀甲城攻めで先登の功、右府(信長)の勧賞をかうぶる『寛政家譜』より
 山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いと戦功をあげていく。
 堀秀政が北庄城主となった後、直政は堀姓を与えられ改姓。
 堀秀政が越後に移ると直政も三条城を与えられ沼垂郡5万石を領した。
 この頃には信長の世も終わり、秀吉も没し、豊臣家の栄華も衰退しつつあった。
 世間は豊臣家の遺臣秀頼を擁護する石田三成派と新しい時代の担おうとする徳川家康派とに別れていた。
 
 堀家の領地は会津へ転封となった上杉家の旧領地であり、上杉派の一揆にも悩まされていたようだった。
 やがて徳川家康から上杉討伐の命が下る。
 堀家では重臣をあつめ会議が開かれた。
 秀政は既に没し、その子秀治が家督を嗣いでいた。
 直政の子、直寄が進言するには、先君秀政は太閤秀吉から御恩徳を蒙り御懇情浅からず。
 上杉景勝と石田三成は秀吉の遺児秀頼公の御為に考えられている。
 その上杉景勝を討って良いものかと反対を唱える。
 
 ところが直政はこれを否定する。
 主君堀家も奥田−堀家も太閤の御恩は忘れがたき事なり。
 だが、もとは織田信長の御恩により御家が立ったことが大事で太閤のみの御恩とは言い難い。
 先君秀政はその信長の御子孫の衰退を嘆いて何らかの手を打ちたいことを願っていた、と。
 
 直寄は尚も反対する。
 御家の起こりは信長公であることは間違いないが、この繁栄は皆、太閤の御恩。
 それを信長公の御恩が先と言って秀頼公に二心があれば君臣の義は立たない。
 
 直政もさらに反論。
 秀頼公の為と強調するが、今回の事の原因、つまりは上杉景勝と石田三成が徳川家康に従わないのは 秀頼公の意思ではない、と一蹴。
 かくして堀家は徳川派として上杉討伐に加わる。
 
 やがて関ヶ原の戦いも徳川方東軍の勝利に終わる。
 徳川家康は直政を讃える書を送った。
 その後、幕府直轄領の佐渡で一揆が起きたとき、徳川家康は直政を討伐に差し向けるよう名指しで掘秀治に命じたという。
 流石は「天下の」と冠せられる陪臣であろうということか。
 
 慶長十三年(1608)二月、越後高田で没した。
 
  補足   
 嫡男直次。二代将軍秀忠のおぼえも良かったようである。
 他に直寄、直重、直里、直之、右衛門太郎、直忠、田丸織部室、堀修理室、堀主膳室。
 直次と直寄間で諍いがあり、駿府で相論。
 直次は破れ主君松平(堀)忠俊と共に改易。
 直寄は勝つものも減封を受ける。
 
 
  <<参考>>
  『信長公記』『寛政重修系図諸家譜』『織田信長家臣人名事典』『歴史と旅 昭和61年9月号』
  (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) 

 
 



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