マイナー武将列伝・織田家中編 




 那古屋(那古野)弥五郎
 なごや やごろう 
 生没年   ?〜?   主君・所属    
主な活躍の場   
 
 
 那古野弥五郎。 那古屋弥五郎。
 
 那古野荘たる那古屋氏の裔かと思われる。
 那古野荘は尾張国愛智郡内にあり、現在の名古屋城の周辺と思われる。
 その域は東西は大曽根から枇杷島あたり、南北は田幡、児玉から前津、日置あたり。
 だいたい名古屋市中区と東・北・西・中村の中区に接する地域である。
 また名古屋城の南西に那古野の地名が残り、外堀沿いには那古野神社がある。
 名古屋城も実は那古野城の跡に建ち、名古屋城二の丸庭園にはその碑がたっている。
 ここで那古屋・那古野・名古屋と三様の表記をしたが全て共通と思っていただいてもいいと思う。
 貞治三年(1364)の大須真福寺の蔵書に尾張国那古野荘と記されたものがあるようだ。
 以降応安・応永年間(14世紀中〜15世紀前)で見つかった文書は概ね「那古野」のようだ。
 熱田神宮にある宝刀には大永二年(1522)と彫られたものがありそれには「名古屋」とあるという。
 古くは「那古野」で後年、「那古屋」・「名古屋」とも表記されるようになったと考えてもよいのでは。
 但し「那古野」を「なごや」と読まず「なごの」と読む場合もある。
 話が長くなってしまったが、那古屋荘は今の名古屋市の中心一帯だと思ってくだされればよい。
 
 織田信長の最初の居城であった那古野城もここにあり、那古野弥五郎はその地に古くから根付いていた家柄の者であったと言えよう。
 『信長公記』には
   「清洲には那古野弥五郎とて十六七若年の人数三百ばかり持ちたる人あり」
 と記載されている。
 三百人をかかえるとなると相当の大身である。
 清洲は小田井荘であり那古屋荘ではないが、那古屋荘と接する地域である。
 
 『信長公記』の以降に続く文章から読み取れば、当時清洲織田家(下守護代)に属していたようだ。
 同じく清洲を居としながら実権を守護代織田信友に握られていた尾張守護斯波義統の家臣に簗田弥次右衛門という男がいた。
 この簗田弥次右衛門が那古屋弥五郎に目を付け、那古屋弥五郎を信長側に引き入れて清洲織田家勢力の分裂を謀ったのである。
 簗田弥次右衛門と那古屋弥五郎の仲はいわゆる男色である。
 二人は共謀して信長に味方して知行をとろうと清洲方の家老衆にも働きかけた。
 家老らも欲にくらみ賛同する者があったようだ。
 簗田弥次右衛門は信長のもとへ赴き忠誠を誓った。
 そこでは那古屋弥五郎については触れられていないが、那古屋弥五郎も信長に与することになったのであろうと思われる。
 
 その後、永禄二年(1559)信長は時の将軍足利義輝に拝謁する為に上京した。
 このとき美濃の斎藤氏から信長を暗殺すべく刺客が放たれたようであるが、那古屋弥五郎配下の丹羽兵蔵の機転により信長はその難を逃れている。
 
 以降の那古屋弥五郎については詳細は伝えられていない。
 だが那古屋弥五郎と書かれた文書はいくつかあり、また那古屋(名古屋)姓の人物も登場している。
 
 時は遡るが『信長公記』の小豆坂の戦いの記事に那古屋弥五郎なる人物が登場する。
 「那古屋弥五郎 清洲衆にて候 討死候なり (中略) 那古屋弥五郎頸は由原討取るなり」  小豆坂の戦いは天文十一年(1542 −諸説あり)である。
 この項で紹介する那古野弥五郎は天文二十一年(1552)の時点で16〜7歳で家の惣領である。
 先に述べたように那古野も那古屋も同じで表記方法の違いだけのことであるから同姓であろう。
 すなわち小豆坂の戦いで討死した那古屋弥五郎は簗田弥次右衛門と手を組んで信長に仕えた那古野弥五郎 の父親ではないかと推測される。
 『信長公記』では先の那古屋弥五郎と後の那古野弥五郎とで姓が一貫して区別されているが、何か意味を もってのことであろうか。
 その理由は不明であるが那古野弥五郎の姓は那古屋でもあると見るのが一般的である。
 
 「尾張円福寺文書」に那古野弥五郎勝泰と書かれた礼状があるが年号の記載がない。
 従って那古屋勝泰は小豆坂の戦いで討死した那古屋弥五郎か信長に仕えた那古屋弥五郎か、はたまた他世代の那古屋弥五郎かは不明 である。
 
 他に那古屋又七教久や那古屋因幡守敦順も同世代の人物として名がみられているが那古屋弥五郎との関係は不明 である。(因幡守敦順の子は名古屋山三郎
 
 

  補足   
 



戻 る 織田家中編トップへ戻る