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万見重元。 幼名仙千代。
一説に神子田(みこだ)長門守、あるいは小幡織田氏の出身とも言われる。
(神子田説は「武家事紀」に記されているそうですが私はこのことを
未だ「武家事紀」で調べたことがなく詳細は解りません。
神子田氏は近江系の家。(近江から土着した尾張武士も少なくないです。)
豊臣秀吉の麾下に御子田正治という武将がいましたが、関係があるか
どうかもわかりません。
小幡織田氏については「織田百人の家臣」(岡田正人著)に書かれている
そうですが、これも読んではいないので詳細はわかりません。
申し訳ないです。)
信長の小姓として仕える。
表舞台に登場しだすのは天正三年(1575)頃から。
信長と秀吉の間の書状のやりとりを取り次いでいたことが判明しています。
(この時の文書には天正四年とされる説もあり)
小姓として仕えていたのはそれ以前からでしょうが、小姓としてのそれなりの
地位を確保したのがこの頃ということでしょうか。
以降、政務的な側近として仕えているようで、天正六年頃から頻繁に史料に登場します。
五月 西国へ向かう秀吉の元に派遣
六月 神吉城攻めの検使
兵庫から明石にかけて砦の構築
七月 太田道誉宛の信長黒状に副状を発給する
八月 安土での相撲会の奉行
九月 信長の堺下向、津田宗及訪問に従う
十月 法隆寺東寺に段銭の納入について指示
--------------(「織田信長家臣人名辞典」より抜粋)
その天正六年に信長麾下の将、荒木村重が謀反を起をす。
10月頃その様な噂が流れたため、信長は詮議その真偽を糺すために重元は
明智光秀らとともに有岡へ糾問使として遣わされた。
村重は噂は事実無根であると主張し、重元らもそれを受けて帰国したが、まもなく村重は反旗を翻した。
こうして、有岡城攻めが始まるが、この時より重元は戦陣に加わっている。
それまで戦場にあろうとも検使等の役割で、刀槍をとって敵陣に切り込むことは
あまり無かったようなのだが。
「村重に裏切られた」という気持ちにはやったのであろうか。
同年12月、有岡城一斉攻撃の命が下り、堀秀政・菅屋長頼とともに鉄砲隊を指揮する。
この時、城の近くまで肉薄するが、ここで討死を遂げた。
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