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直政。正勝、重友。九郎右衛門。備中守。
初め塙姓(ばん 一説に「はなわ」。ばんが正解か)
春日井郡比良村の出身。
妹が信長の側室となっており、信長の信任も篤かったと思える。
信長の馬廻を経て赤母衣衆となる。
信長が蘭奢待を賜ったときには柴田勝家・丹羽長秀らと共にの御奉行(監督役)を務める。
山城・大和の守護職に就き織田軍団の中でも重きをなしていたようだ。
天正三年(1575)、信長の命により姓を塙から原田へ改め以降、原田備中守と称する。
原田姓は九州の名族であり、同様に丹羽長秀は惟住姓、明智光秀は惟任姓を賜っている。
文献上、惟住姓の長秀、惟任姓の光秀は見られるが、後世では元のまま、丹羽・明智で呼ばれている。
原田直政のみ、姓を戻さず、後世の小説・ゲームでも塙では登場しない。
『信長公記』文中では長篠の戦いまで塙九郎右衛門、朝倉攻めのあとは原田備中守と記載されている。
天正四年(1576)、荒木村重、細川藤孝、明智光秀らと共に大阪本願寺攻めを命じられる。
村重は尼崎より海路をとって北野田の砦を抑え河川を封鎖。
細川藤孝と明智光秀は森口(守口)、森河に砦を構えた。
直政は天王寺の要害を賢固にする。
一方、本願寺側は楼岸・木津に砦を構え難波口からの海路を確保していた。
この楼岸・木津の砦を落とせば本願寺の通路を一切封じ込められる。
信長は両砦の攻略を命じた。
天王寺砦には佐久間信盛を詰め、この第一陣に三好康長と根来・和泉衆、第二陣は原田直政と大和・山城衆という
編成でこれにあたる。
本願寺側は事前にこれを察知しており雑賀衆らが鉄砲を構え待ち伏せしていた。
三好康長は木津砦へ攻め寄ろうとしていたが、この伏兵に遭いあえなく撤退。
原田直政は三好康長の退却後もなんとか持ち堪えていた。
だが本願寺からの増兵に総崩れとなり殲滅した。
原田直政はこの戦いで塙喜三郎、小七郎らの一族と共に討死。
このあと本願寺勢は天王寺砦まで攻めたてた為、信長自ら援軍を率いて駆けつけた。
その際、足に銃創を負うが、なんとか天王寺砦を救うことは出来た。
生き残った原田直政の一族らは追放される。
理由ははっきり伝わっていない。
この戦いの責任を負わされたのだろうか?
しかし、本人と一族の何人かは既に討死している。
これ以上責任を負わす必要があるのだろうか?
本願寺側が木津の砦の攻略を察知していたのは、情報が筒抜けだったからであると言う。
情報漏れの責任、あるいは一族の誰かが情報をリークするような行為を働いたのだろうか。
だとすればうなずけるのだが、確かな資料はない。
あくまでも想像の事。
この戦いとは無関係な不祥事・不手際ということもあるのかもしれない。
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