マイナー武将列伝・毛受家照 




 毛受家照 
 めんじょう いえてる 
 生没年   ?〜1583   主君・所属   柴田勝家(織田信長麾下) 
主な活躍の場  賤ヶ岳の戦い 
 
 
 毛受勝介家照。 荘介。 勝照。 吉親。 照景。
 毛受照昌の子。 兄は茂左衛門。 父照昌は篤信の人で母は至孝なりという。
 柴田勝家に近侍。
 
 12歳にして柴田勝家の小姓となり、後小姓頭に任ぜられ1万石を食む。
 初め名は荘介照景と伝わる文献もある。
 伊勢長島の戦いに於いて、戦のさなか勝家の馬印が奪われた。
 勝家はこれに憤慨し死を覚悟で突入して奪い返そうとするが諫められ、その間に荘介が敵陣へ突入、 馬印を奪回した。
 勝家は大いに喜び荘介に「勝」の字を与え勝介勝照とした。あるいは  「勝」と「家」の字の両方を与え勝介家照とも伝わる。
 
 賤ヶ岳の戦いで勝家の軍が瓦解し逃げる際、勝家は討死も覚悟したが家照は城への退却を進言する。
 自らは勝家の馬印「金の御弊」を掲げ、時間稼ぎの為勝家の身代わりとなって敵陣へ一戦を挑もうとした。
 兄・茂左衛門も共に進もうとするのを家照は「兄弟揃って死しては母の不孝」と制する。
 しかし茂左衛門は「ここで弟を見捨てて帰れば母に不孝」と譲らない。
 兄弟は兵200を率い揃って討って出ることとなった。
 
 
 毛受も珍しい姓である。
 元々は水野姓(尾張東部・三河に多い土豪の姓)であった。
 毛受家照は尾張東部の稲葉村(現・尾張旭市)の出身。
 子孫はあるが水野姓に戻ったという。
 とはいうものの名古屋近辺には毛受姓の方が今でもいらっしゃる。
 ゆかりの家であろうか。
 
 
  補足     
 ★ 毛受の読み名についてお問い合わせがありました。
 正直申しますとよくわからない(知らない。)のです。
 「めんじゅ」と書きましたが「めんじょ」あるいは「めんじょう」かもしれません。
 尾張西部に「毛受」という地があります。
 その地名と毛受家照との間にゆかりがあるのかもしれません。
 この地名は「めんじょ」と読まれます。
 ですが地名とそこから出た苗字とが後世に異なった音で読まれることも少なくありません。
 資料に「めんじゅ」とカナがうたれたものが多いので「めんじゅ」としましたが。
 こんないい加減な事で申し訳けないです
 はっきりと知っている方おられましたらどうかお教え下さい。
 
 ★ その後、皆様から幾つか情報を得ることができました。
 尾張旭市の公民館に毛受勝照(家照)の銅像が建てられています。
 この解説板には「めんじょう」とカナが振ってありました。
 
 ★ 先日、毛受(めんじょう)さんにお会いしました。
 その方はの仰るには、やはり読みは「めんじゅ・めんじょ・めんじょう」と幾つかの読み方の姓があるそうです。
 数えてはいませんが「めんじょう」と読む方のほうが多いのでは?とのこと。
 
 ★ さらに御子孫とおっしゃる方からメールを頂きました。
「めんじょう」と読むのが正しいそうです。
 表題もそのように訂正させて頂きました。
 
 ★ またまた情報です。
 毛受の子孫が賎ケ岳の戦いの後、前田家に仕えたという事。
 一端、三井姓を名乗り、江戸末期に再び毛受姓に戻ったと聞いています。
 現在、金沢市の野田山の前田利家の墓の隣に毛受姓の墓が5基ほどあるそうです。
 毛受姓の墓石には、毛受兼庵先生とか毛受大学と書いた墓があるようです。
 毛受兼庵先生毛受大学について詳しくはありませんが子孫の方なのでしょう。
 情報を頂いた方の母方が毛受(めんじゆ)姓だそうです。
 また、この一角には水野姓や藤田姓など全部で16基の墓があり、向かって左隣が前田利家の墓。
前に豪姫の墓。右隣が加賀八家の一人奥村家の墓が数基。

 
 



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