マイナー武将列伝・織田家中編 




 河尻秀隆 
 かわじり ひでたか 
 生没年   1527?〜1582   主君・所属   織田信長 
主な活躍の場  黒母衣衆・甲斐国主 
 
 河尻与兵衛秀隆。 鎮吉(しげよし)。
 信長の尾張統一以前に敵対していた河尻与一を河尻秀隆と同一人物とする文献があったが、別人ではなかろうか。
 マイナーとひとまとめにしてしまうにはもったいない気もする人。
 本能寺の変後、一気に歴史の舞台から転げ落ちていった武将の一人である。
 
 信長の父・信秀に仕え、小豆坂の戦いでも戦功あり。
 信長の信任もあり、弟・信行殺害も直接刀を振い信行を斬った男である。 
 桶狭間の戦い・堂洞城攻め・大河内城攻めなど転戦。
 武功の高い武将を集めた本陣使番である黒母衣衆に抜擢され、その筆頭とも言われる。
 天正三年(1575)、岩村城攻めに参加。 戦功をあげ岩村城を与えられる。
   これにより東濃の最前線を守る役を担うこととなった。
 自然、信長の嫡男・信忠の軍団の要となり、信忠与力の筆頭格として手腕を奮った。
 天正十年(1582)武田攻めにも従軍。
 武田滅亡後、その功績を認められ府中城主となり甲斐一国と信濃の一部を与えられた。
 信長の家臣で一国を任される武将はわずかである。
 このとき柴田勝家・明智光秀らの軍団司令官に次ぐ地位を得たと言っても過言ではないだろう。
 
 だが、歴史はただ一つの出来事から大きく変わる。
 同年、本能寺の変が起こり、信長は死してしまう。
 武田の威信がまだ残る甲斐で一揆が勃発。  しかもこの一揆は徳川家康が裏で糸を引いていたという。
 この国人一揆衆に襲われあえなく討死してしまった。
 わずか三ヶ月たらずの甲斐国主。
 本能寺の変から二週間あまりの事である。
 
  補足   



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