マイナー武将列伝・織田家中編  

 
 
 
 織田 造酒丞 
  おだ さけのすけ(みきのじょう)
 生 没 年   不詳    主君・所属   織田信秀・信長 
 活躍の場など  小豆坂の七本槍、など 
 
   
 織田造酒丞。(造酒佐・造酒祐)
 文献により信辰、信房。あるいは清正、とあるが、どれも確証は無い。
 織田姓を称するが、実は織田一門ではないようだ。
 功績により織田の苗字を賜ったと言われているが、その詳細も明らかでない。
 嫡男である清長は小瀬氏を名乗る、これは小瀬家に養子に出た為であることが記録に残っている。
 もう一人の子は菅屋長頼(幼名として「織田長」が文献に残る)という。
 織田造酒丞が元はどういった苗字を称していたかは定かではない。
 
『織田信長家臣人名事典』には祖父の名は「岸蔵坊」であったと記されている。
 これは『武家事紀』に記載された
 
  祖父を岸蔵坊と云って無双の勇士なり (中略) 織田岸蔵坊、尾州において武名を振るう。 
 
 が出典と思われる。
 
 岸蔵坊という名から僧・僧兵というイメージが出てくるが、詳細はやはり不明。
 戦功の褒美の折、将軍家に拝謁出来たというから身分はそこそこあったものかもしれないが、
『武家事紀』の記載によれば、 
 
  きわめて貧しきが故に、布の旗、筵の障泥にて疲れ馬に鞭をあつ。 
 
 とあり、身分は低いが、それでも将軍家に拝謁出来る程の功績をたてたということか?
 
 ともかく、この時、北方に一揆があり、村上紀伊守と岸蔵坊に退治の命が下ったという。
 村上紀伊守は馬具・武具も整え岸蔵坊とは対照的な姿。
 どちらが一陣、二陣となるかをくじで決め、村上紀伊守が一陣、二陣は岸蔵坊となった。
 村上紀伊守の第一陣は破れ、岸蔵坊は身に三箇所の傷を被りながらも一揆を打破った。
 こうして凱旋し将軍家に討捕らえた首を献上した。
 その様子を『武家事紀』は、 
 
  将軍家感悦のあまり御盃を下され、ことに駿馬を賜う。 
  村上も御盃にあずかりぬ。 
  村上もとより大酒なれば、数盃を傾く。 
  将軍家興に入り給うて御太刀を賜いて各退出す。 
  岸蔵坊大いに怒れる気色にて、 
  一番に逃亡せる村上は重代につたわる太刀を賜り、軍功無双の某には、明日もしらざる馬を賜る。
  此の馬を殺し皮をはいで太鼓に張り、是こそ将軍家より軍功に賜れる馬の皮よと銘をしるし、子孫に伝うべし。
  これ村上が上戸ゆえなり。 
  下戸なる者は益なし。 
  下戸無念なりと、ののしり立って帰れりとなる。
 
 
 と、書き記してある。
 
 気性の荒さを伺える話であるが、面白いエピソードでもある。
 将軍は岸蔵坊の「疲れ馬」を見かねて馬を与えたのかもしれない。
 村上に対しては酒飲みの豪快さを喜び手近な太刀を与えたのかもしれない。
 「重代につたわる太刀」と「明日もしらざる馬」。
 一代限りの褒美より末代まで継がれる褒美の方が重き価値があったということであろう。
 軍功は一番なのに褒美は二番となってしまった訳だ。
 
 冒頭に織田岸蔵坊とあるから、織田家より苗字を賜ったのは造酒丞ではなく岸蔵坊だったのかもと推測。
 そうであれば、末代まで継がれる「氏」の褒美は、岸蔵坊にとって最上級の褒美だったのかもしれない。
 
 
 
 前置きが長くなりました。織田造酒丞に戻ります。 
 
 織田造酒丞も猛将と称えられ『武家事紀』は 
 
  天文、永禄の間、織田家武勇の者、造酒佐をもってついですと云うことなし。 
 
 としている。 
 
 天文十一(1542)年八月、小豆坂の戦で功名を得、小豆坂の七本槍の一人に数えられる。
 弘治二(1556)年八月、稲生の戦。
 永禄三(1560)年五月、桶狭間の戦。
 
 桶狭間の戦以降の動向は不明。
 『織田信長家臣人名事典』は桶狭間の戦で討死したのだろうと推測しているが定かではない。
 重症を負い戦の出来ない身体になったのかもしれないし、もともと高齢で隠居したのかもしれない。
 戦死した場合、織田造酒丞ほどの者ならば『信長公記』等の文献に記載が残るような気もするのだが。
 ともかく歴史の舞台からは桶狭間の戦を最後に消えていった。
 
 『信長公記』首巻の火起請というエピソードの中に「織田造酒正家来甚兵衛」という人物が登場する。
 「正」と「丞」の字の違いがあるが、誤記であろうと思う。
 桶狭間の戦以降に記載された逸話である為、桶狭間の戦以降も織田造酒丞が生きていた印となるかもしれないが
 『信長公記・首巻』の各項が必ずしも年代順とは言えないので証拠にはならないだろうが。
 
 
 
 
 
 
 
 補
 
 
 足
 
 
 
 
 
 
   
 子は 
   小瀬清長 
   菅屋長頼 −−−− 信長の馬廻の統率者である一方、行政官としても腕を奮った。 
             本能寺の変の際、二条御所で奮死。
             菅屋長頼の子、角蔵・勝次郎もそれぞれ本能寺・二条御所にて討死している。
 
 
 「造酒丞」は官途名と呼ばれる律令制度上の官職名に由来する名前である。
  文字通り酒を造る役人であり、正・祐・令史・酒部・使部などの位がありる。
  造酒祐は従七位下の官位相当で、他の官途名に比べそれほど高い位ではない。
  造酒正でも正六位上である。
 「丞」本来、式部丞・民部丞等で用いられる第三位の位である。
  誤記とも思われるが、織田造酒丞自身が誤ったまま称していた事も考えられる。
  文献上でも造酒佐と書かれたものもある。
  読みも「造酒」は、律令制度上でも「さけ」と「みき」と二通りの読み方がある様だ。
  資料・解説書などでは「さけのすけ」と仮名を振る事が多く、それに従った。
 
 
 
 
 
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
  『信長公記』   太田牛一  角川日本古典文庫
  『信長記』   小瀬甫庵  現代思想社
  新編 武家事紀』   山鹿素行 著  新人物往来社
  『織田信長家臣人名事典』   高木昭作 監修 谷口克広 著 吉川弘文館
  旧参謀本部編 桶狭間・姉川の役』   旧参謀本部編 徳間文庫
     
    その他、参考文献紹介頁参照
 
 
 
 
 

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