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豊臣秀吉の側室で松の丸殿と呼ばれた。京極殿、西の丸殿とも。
(大坂城西の丸にいた頃に西の丸殿と、伏見城松の丸に移って松の丸殿と呼ばれた)
京極高吉の娘で竜子と言う。
はじめ武田元明に嫁いだ。
武田元明は若狭守護武田義統の子。
武田元明は一端、織田信長に従ったが本能寺の変時、明智方に付き攻め滅ぼされてしまう。
その後(天正十一年頃)、豊臣秀吉の側室となった。
小田原攻めの際にも朝鮮役に伴い名護屋へ出陣した際にも松の丸殿を連れて行ったというから
よほどの寵愛を受けていたのであろう。
凱旋後、大坂城の西に御殿を賜り西の丸殿と呼ばれた。
この頃、秀吉が西に御殿(松の丸殿)に宛てた手紙には「にしのまる 五もじへ」と書いてあるから
それまで「五もじ」と呼ばれていたのかもしれない。(詳細不勉強)
後、伏見城松の丸に移って松の丸殿と呼ばれた。
戦国の女性で名が記録されている事は極希である。
正室と言えど名が残らぬ人物も多い。
彼女の名が残ってきたのは単に秀吉の側室というだけではなく、京極高吉の娘にして武田元明の妻という
血統の良さもあるのであろう。
さて、秀吉の側室となったわけではあるが、それが恵まれたものであるかどうかは本人しか知らないであろう。
太閤という絶対権力者の室である。
彼女を取り巻く利権争いや側室間の確執もあったであろう。
こんな話が残る。
慶長三年(1598)「醍醐の花見」と呼ばれる盛大な宴が催された。
秀吉の正室側室たちも参加しているが、その時の輿の順も記録に残されている。
一番に政所さま、二番が西の丸さま、三番に松の丸さま、四番以降三の丸さま、加賀さま、大納言殿御内と続く。
政所さまは言うまでもなく正室の北政所である。
西の丸さまは淀殿(淀君)の事。
松の丸殿はこの正室と側室筆頭に次ぐ順位と権勢を誇っていたのであろうと思われる。
ちなみに三の丸さまはかっての主君織田信長の娘。
加賀さまは前田利家の娘。
大納言殿御内は前田大納言利家の内儀(妻)の意味で芳春院(お松)の事。
もちろん前田利家の正室であって秀吉の側室ではない。
前田利家・芳春院夫婦と秀吉との懇意の間柄は周知の事と思います。
やはりここでも別格の扱いをうけていたのでしょう。
さて、この時、北政所と淀殿の間で女の戦いが繰り広げられた・・・という話が流布しております。
でもそれはこの章の主題ではありませんし、真実性にも欠けるので省略します。
ですが、松の丸殿の行動で目に留まった事があるので紹介しましょう。
秀吉が、まず一献と北政所に盃をまわしました所、そのお流れを松の丸殿が所望した。
宴会の席での、まず一献、返杯を、お流れを・・・というのはもうなかなか見られなくなってきていますが、
この時代、男であろうと女であろうと上下の順、礼儀、面目には口うるさいのです。
順で言えば次は松の丸殿ではなく淀殿のはず、当然彼女はそれを咎めた。
しかし松の丸殿は受け流す。
どちらも譲らず、重い空気が立ちこめる。
仲裁に入るべき秀吉は素知らぬ顔を決め込む様子。(これは今でも使う手ですな)
これが武士同士なら刀に手が届いたかもしれないでしょう。
この場を救ったのは芳春院。
歳の順から言えばこの私。と、申し出た。
確かに芳春院は家臣筋といえど、この席では客人。
客人をほうって於いて身内で順争いをするものではない。
正論である。
宙に浮いた盃を誰が受けるかはこうして収まった。
この淀殿と松の丸殿との争い。
単に席順の見栄というだけではあるまい。
先にも挙げたが松の丸殿の血統の良さはお墨付きである。
一方、淀殿はどうか?
これも皆様ご周知の通り淀殿は織田信長の妹市姫と南近江の大名浅井長政との間にできた娘。
血筋は悪くない。
悪くはないが、やはり松の丸殿の方が上なのである。
天下人織田信長も元を正せば尾張守護の陪臣の陪臣(守護代に仕えた奉行の家柄)。
織田氏の流れはどこから発したかさえ怪しいもの。
浅井長政も同様。
元は近江の国人の家。
浅井氏は京極氏の被官でした。
家臣が主を凌いでしまったというだけで本来西の丸殿つまり京極竜子は主筋になる。
このあたりの事も西の丸殿は心のどこかにひっかかっていたのではあるまいか?
正室北政所は仕方がないとしても、被官とどこの馬の骨ともわからない家柄の間に生まれた娘の下手に立つモノか。
同じ側室という身であるならばせめてその筆頭格にと。
実は西の丸殿の母は浅井長政の父久政の娘であるとも(浅井祐政の娘とも)伝わり、近親故により競争心を持ったのかもしれない。
尚、このエピソードは前田家家臣村井重頼の「陳善録」に記されているという。
秀吉の死後は没落。
単なる側室筆頭格というだけでなく秀頼の母君という権威は絶大なもので、それに対抗していた西の丸殿は秀吉の庇護が
なくなった後となればそれも当然の事。
実家筋、京極高次を頼り大津へ移る。
関ヶ原合戦の後、京都に戻り誓願寺で晩年を送る。
寛永十一年9月朔日死去。
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