武将列伝番外編・女性列伝・松姫(信松尼) 




 松姫(信松尼) 
 まつひめ (しんしょうに) 
 生没年   1561〜1616   主君・所属   武田信玄の六女・織田信忠の許嫁 
 
 
 松姫。 新館御寮人。 武田信玄の六女。 母は油川夫人(油川刑部信守の娘)。
 織田信忠(信長の嫡男)の許嫁でもある。
 
 武田信玄と織田信長は当初友好的な関係にあった。
 信長側から友好的な交渉を望んでいたようだ。
 西へと目を向ける信長にとって東の雄信玄は脅威でもあった。
 友好関係を結んで置くことに越したことはない。
 はやくから書状や贈り物を送っていたようだ。
 一方、信玄も信長に対して少なからず興味も示していたに違いない。
 上杉との戦いも続く中、さらに織田まで敵に回すこともない。
 さらには今川・北条との同盟が解消されるとならば、なおの事である。
 
 永禄八年(1565)信長の娘が信玄の息子勝頼に嫁ぐという形で武田・織田に姻戚関係が結ばれた。  もっとも、信長の娘といっても実子ではなく東濃の苗木勘太郎の娘を養女として引き取り嫁がせている。  また苗木勘太郎の妻は信長の妹だから姪でもある。)
 ところがこの娘、遠山夫人は翌々年に亡くなってしまう。
 あらたな絆として選ばれたのが信長の嫡男信忠と信玄の娘松姫との婚姻である。
 信玄も承諾したが松姫はまだ幼いため(信忠11歳、松姫7歳)躑躅ヶ崎館(信玄の居城)の近くに 新館を設けそこに移らせた。
 織田家の嫁の為の館である。
 以降、甲斐では松姫を新館御寮人と呼んだ。
 婚約が成立した早々から信忠より松姫へ贈り物が届く。
 信長が贈り物や文をまめに送るよう信忠に言い聞かせていたそうだ。
 松姫からも信忠へせっせと手紙を書く。
 政略結婚であろうとも若い二人にとって文通を重ねていくうちに未だ見ぬ未来の夫や妻に対して恋心でも 芽生えていったのかもしれない。
 やがて二人も成長し、いよいよ輿入れも間近という頃、二人は引き裂かれてしまう。
 元亀三年(1572)信玄が西上を開始したのである。
 三方が原の戦いで両軍の衝突。
 岩村城攻略。
 武田と織田か抗戦状態に入り、松姫と信忠は仇同志という立場に一転したのである。
 やがて信玄が病死。
 長篠の戦いで武田勝頼が敗北。
 岩村城が織田方に奪回される。
 そして、織田軍の信濃甲斐侵攻。
 武田家の滅亡と運命はより過酷な方へと進んでいく。
 
 この間、信忠は監川伯耆守の娘を娶り、三法師らの子供をもうけている。
 しかし、松姫は独身を通していた。
 信忠には織田の嫡男という現実がある。
 自分の跡を継ぐ者をもうけなければならず、また敵方の女性に通じることは出来るはずもない。
 連絡は閉ざされ元許嫁の去就はわからないが、 年齢や武田という家柄からやはり他の誰かに嫁いだだろうと考えるのも当然であろう。
 だが、松姫は信忠を選んだ。
 物心ついた時から思春期の間、ただ未来の夫の事を考え続け、未来の夫からの手紙を待ち続けてきた。
 純愛などと一言で簡単に片づけられてしまうものではなかろうが、 今の世の少しひねくれて育ってきた私どもには、その心情を推し量りきることはむずかしかろう。
 
 信忠も松姫のことを決して忘れていたわけではなかったという。
 行くへを探し求めていたのかもしれない。
 戦禍に巻き込まれ命を落としたのであろうか。
 他国へ落ち延びたのであろうか。
 自分を赦してくれるのだろうか。
 その状況もたんなる推測でしか思うことはできない。
 そして武田が滅んだその年、信長は本能寺の変に倒れ、信忠自身も二条御所で命を落とす。
 
 松姫は八王子の心源院へ落ち延びていた。
 ここで武田の滅亡と同母兄信盛の死も知ることとなる。
 松姫は落ち延びるに際して信盛の娘と勝頼の娘を預かっていた。
 ここで農耕や縫物に励み幼い姪達の面倒を見続けた。
 この時、行方を探し出した信忠からもう一度あらためて松姫を娶りたいとの知らせが届き、 松姫は喜びながら信忠のもとへ向かう途中で本能寺での悲報を聞いたのだという。
 
 やがて松姫は剃髪して信松尼と号した。
 (信の字はは武田家ゆかりの字でもある。
 けれども、やはり信忠の一字でもあることに意味があるのだろうか。)
 八王子での信松尼は武田家の遺児や遺臣たちのために尽くした。
 遺臣たちにとっても信松尼の存在は象徴的なものであったのかもしれない。
 徳川家康に仕えた旧武田の家臣たちの援助をうけて八王子信松院を建立するに至る。
 
 ただ一人の男を愛し続け、22歳で仏門に入った信松尼は元和2年(1616)、 56歳でその生涯を閉じた。
 
  補足   
 



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