武将列伝番外編・女性列伝 




 おつやの方 
  おつやのかた
 生没年   不詳 〜1575   主君・所属   織田信長の叔母・岩村城女城主  
 
 
 織田信定の娘で信長の叔母にあたる。
 一般におつやとも呼ばれているが正確な事は不明。
 おふくとも伝えられてる。
 絶世の美女であったという。
 
 初め美濃岩村城(現・岐阜県岩村町)の城主遠山内匠助景任に嫁いだ。
 元亀二年(1571)、遠山景任が病没してしまったため織田信長の五男坊丸を養子に迎え入れる。
 だが坊丸は未だ幼少のためおつやの方が後見となり、事実上女城主として采配を振るった。
 
 翌年11月、武田信玄の将・秋山信友が東濃に侵入、岩村城に迫った。
 堅固に守りを固める岩村城に対し秋山信友が和議を申し入れるが、同時におつやの方に対し婚姻を 求めたのである。
 おつやの方はこれに応じ開城。
 今度は武田の将・秋山信友の妻として岩村城主の妻の座に着いた。
 この時、坊丸は人質として甲斐に送られた。
 (坊丸は甲斐で信玄の養子となり、のち武田滅亡の直前、織田方へ送り返された。  信長の末裔・織田勝長 参照
 
 長篠の戦いで武田勢に圧勝した信長は岩村城奪回を謀る。
 信長の嫡男・信忠を大将として岩村城を攻めたてるがなかなか落ちない。
 力攻めでは落ちないと判断した信忠は持久戦に持ち込む。
 城を巻き、間道を塞ぎ、抜け道をも見付け兵糧攻めを開始した。
 武田勢は大敗を帰したばかりで援軍を出すのは不可能と読んだのであろう。
 だが、城はなかなか落ちない。
 逆に「援軍来る。」と虚報を流し信忠を困惑させる。
 なかなか落ちない城に業をにやした信長は直接出陣し陣頭指揮をとることとなった。
 信長は謀り事で城を落とすこととした。
 和議を申し入れたのである。
 籠城側は知らなかったが実際、武田の援軍は迫っていたのだ。
 ただ雪に阻まれ手間取っていたのであった。
 
 援軍は無く、兵糧も乏しく飢えと寒さに城兵は苦しんでいる。
 「叔母の城の城兵にて兵火にさらすのは忍びない。」
 そう開城を持ちかけた信長に秋山信友・おつやの方は応じた。
 しかし信長は甥である自分を裏切り、さらに我が子までも人質に差し出したおつやの方を、 赦そうとは思っていなかったようだ。
 和議を結び城を開けた秋山信友以下の城将を皆殺しにし、おつやの方も捕らえ逆磔刑に処した。
 
 信長はしばしば逆上する。
 一度の裏切りや敵対行為は大目にみることもあったが、その分、反動は凄まじい。
 「甲陽軍鑑」では武田勝頼が先に奥平信昌の妻を磔刑に処したための報復であると記されている。
 報復か只の逆上か、定かではないがやはり後者のほうであろう。
 
 過酷な仕打ちに おつやの方は
 「敵方であった秋山信友は開城に際し約束を守ったのに、
 身内である信長は和議の約束を反故にするのか。」
 と嘆き、恨んだという。
 逆磔刑に際し「かかる非道のふるまい、わらわがその罪を赦すとも天が赦すまじ。
 追っつけ因果はめぐりて、苦しき死に遭うべきよ。」と、
 怨嗟の声をあげながら泣き果てた。
 
 お市の方、淀君姉妹など信長の縁者の女性は美女として後世に伝わるが人が多い。
 おつやの方も美女として名高かったらしいが、やはり気性の激しさも信長の血なのだろうか・・・
 
 
 
  補足     
 * 織田勝長 −−− 信長の末裔・織田勝長参照
 * 岩村城 −−− その後、河尻秀隆が入り改修。  天正十年(1582)に森成利(蘭丸)に与えられた。 城主は転々と変わっていくが元禄十五年(1702)松平乗紀が入り 以降明治維新まで松平氏が受け継いだ。

    <<参考>>
  『信長公記』他
  (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) 

 




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