武将列伝番外編・女性列伝 




 濃姫 (帰蝶) 
  のうひめ  (きちょう)
 生没年   1535?〜1612?   主君・所属   織田信長正室  
 
 
 濃姫。鷺山殿。安土殿。実名帰蝶。
 斎藤道三の娘。
 生母は小見の方(明智光継の娘)。
 小見の方が道三に迎えられたのは天文二年(1533)。
 その二年後に帰蝶が生まれたとする説もある。
 ならば天文四年(1535)の生まれと思われる。
 
 帰蝶が織田信長の元へ嫁いだのは天文十七年(1548)。
 以後、帰蝶は濃姫と呼ばれることとなる。
 美濃の姫と言うことで濃姫となったのだろう。
 
 さて濃姫が織田家に嫁いでいく時、道三は帰蝶に一ふりの懐刀を与えたという。
 「信長はうつけ者との評判である。 まことうつけ者であったならばこの刀で刺せ。」
 そう言った道三に対し帰蝶はこう答えた。
 「承知しました。  ですがこの刀、父上を刺す刀になるやもしれませぬ。」
 道三と帰蝶の性格や気持ちが伺えるエピソードである。
 
 この話が事実かどうかはわからない。
 実は濃姫の立場、行動については後世いろいろ評価が分かれるところである。
 
  この婚姻は政略結婚であり、道三は尾張へのスパイとして娘を送っただけ。
  信長も勢力拡大の後ろ盾として道三の影響力を利用しただけにすぎない。
  従って二人の仲は良いはずもなく、また道三の死後、濃姫は追放され(または殺され)てしまった。
  ----- という見解。
 
  政略結婚であることには違いない。
  だが先のエピソードにも見られるように武将の妻としての立場をわきまえ信長を支えていた。
  信長もそれを評価していた。
  ----- と言う見解。
 
 他、すぐに病死してしまったといった説もあるが、細かな点は別にして「反信長」か「親信長」か?
 大きくこの2つに分かれるとおもう。
 入輿後、全く一級史料文献にあがってこないのが様々な想像をかきたてられるのだろう。
 
 濃姫スパイ説のエピソードとしてこういったものがある。
   夜毎、寝所を抜け出す信長を不審に思った濃姫が問いつめる。
   (新婚の嫁をほったらかしにしている訳であるから、これは当然のことであろう。)
   すると信長はこう答えた。
   「美濃の重臣が道三に反旗を翻すことになっておる。
   首尾良く道三を殺したら狼煙があがる手はずじゃ。
   それゆえ毎夜、高台へゆき美濃に狼煙があがるのを待っておるのじゃ。」
   その言葉を聞いた濃姫は実家へ密書を送り危機をしらせた。
   実は信長の話は嘘なのであるが、道三は騙され嫌疑を掛けられた2人の重臣を殺してしまった。
 もちろん、このエピソードも真偽のほどは定かではない。
 
 基本的に、娘と言えど嫁いでしまえば嫁ぎ先の家の妻となる。
 たとえ政略結婚であろうと、いろいろな思いが巡らされようと、それが大前提ではなかろうか。
 不幸か濃姫は子を産まなかった。
 もし子を、しかも男子を宿せば紛れもなく信長の嫡男となり濃姫は次期当主の母となる。
 また子をなさずとも、将来的にそうなる可能性が高い以上、実家と織田家とどちらを選ぶのであろうか。
 結果的に夫を裏切り実家筋に肩入れした妻の例は幾つか有るが、それは夫婦仲・それぞれの性格・時勢の変化 など様々な要因が招いたものであると思う。
 よしんば実家に情報を流すとしても信長の偽情報のように父母の命・家の滅亡に関わることならあり得るで あろうが夫の生死や家の滅亡に関わる情報を流すはずもない。
 
 濃姫=スパイとするのは、濃姫自身不本意なことではあるまいか。
 父母の命・家の滅亡に関わることなら政略結婚でなくとも情報をリークしても不思議では無かろう。
 大名の娘が嫁ぐに際し身の回りの世話をする侍女達が何人かついてくるのは当たり前のことで、その中に スパイ役がいたとしてもおかしくない。
 というより、いたはずであろうし、当然いるものと織田家でも判断していたことであろう。
 濃姫=スパイ説とは濃姫を媒体として道三と信長が情報戦に利用しただけのことで、濃姫は自分が情報を 漏らしてしまったことも利用されたことも全く気づかなかったのではあるまいかと思う。
 先のエピソードにしても濃姫が侍女に
「信長様からこんな話を聞いてしまった。わたしはどうしたらいいのでしょう。」
 と相談を持ちかけてしまえば話が筒抜けになる。
 いや、その侍女自身がスパイでなくともよい。
 道三ほどの男が二重三重のスパイ網を張らないはずだろう。
 
 さて、もう一つ。  道三の死後、濃姫はどうなったか。
   1.殺された。
   2.美濃に送り返された。(斎藤氏の元へ)
   3.美濃に送り返された。(明智氏の元へ)
   4.そのまま正室の座を守った。
 
 1.2.3.はそれぞれ道三の後ろ盾が得られなくなった為、濃姫の利用価値がなくなったという見解から 生じている。
 
 はたして本当に利用価値はなくなったのか。
 また利用価値が無いと言うだけで正室の座を追われるのだろうか。
 道三は嫡男義竜との戦いに際し、信長へ「美濃国を譲る」と譲状を発したという。
 なぜこの様な譲状を発したのであろうか。
 「義竜に国を盗られるくらいなら。」というのがもっとも強い理由であろうが、信長の正室が濃姫であることにも 起因すると思うのである。
 道三は娘帰蝶を愛し、女婿信長の行動力にも一目おいていた。
 信長に美濃を任せれば正室濃姫つまり帰蝶も美濃太守の妻となり得るのである。
 信長にとっても譲状の効力を有効にするためには道三の女婿であることが不可欠なはずである。
 譲状は、帰蝶に対する道三の愛情であるとともに、わが死後も娘を頼むという信長に対する願いではなかろうか。
 道三亡きあと濃姫の利用価値がなくなったから追放したとは、素直に信じがたい。
 また、本当に利用価値がなくなったからといって追放する必要があろうか。
 戦国時代の正室の座は微妙な位置にある。
 かならずしも円満とは限らず、政略的な目的で利用されることが多い。
 円満でなかったから里にかえすなどとは、まず考えられない。
 濃姫を正室の座から外さねばならぬ理由はないのである。
 新しい正室を迎えねばならぬというならともかく、新しい正室を迎えた様子もない。
 吉乃(信忠らの母)が新しい正室となったとする説もあるが、吉乃が正式に正室となったとする信憑性の高い文献はない。
 まして吉乃を濃姫を正室の座から外すことによって生じるデメリットを押さえてまで正室とする必要性があろうか。
 まして信長がそこまでして吉乃の正室の座にこだわるであろうか。
 濃姫がそのまま正室の座についていたと考える方がふつうではないか、と思う。
 また、信長自身、濃姫に対する愛情を持っていたのか定かではない。
 だが信長という男は猜疑心が強そうでも、実は人を信用しすぎたり、身内に甘いという一面を持った男である。
 たとえ始まりが政略結婚であろうと、長年連れ添った正室を無碍に扱うことはしないように感じるのは、 私の贔屓目な見方なのであろうか。
 
 どちらにせよ、濃姫の晩年や死に際しての文献や伝承はない。
 だがそれは「濃姫」の名にこだわりすぎている為だと思われる。
 
 この時代、人の名はよく替わることがある。
 特に女性の場合、実名が伝わることはまれで「住まい」「地名」で呼ばれることがある。
 有名な人物の例では淀君(淀殿)も秀吉に淀城を与えられた事に起因する。
 信長の妹、お市も小谷の浅井家に嫁いだあとは小谷の方と呼ばれていたようである。
 では「濃姫」の名にかわる人物がいるのであろうか?
 
『織田信雄分限帳』という書物に600貫文の知行を与えられていた「安土殿」という人物が記されています。
 安土という信長の居城を冠する事の赦される女性はいかなる人物であろう?
 信長の正室の他に考えられるはずもない。
 
 本能寺の変の時、信長は「女はくるしからず、急ぎ罷出でよ」と女性達を退出させている。
 また、蒲生賢秀が安土城から信長の子女・側室達を日野城に非難させている。
 その中に濃姫=安土殿も含まれていたのであろう。
 濃姫の母は明智氏で明智光秀の縁者である。(一説に従兄弟)
 変に紛れて殺された、または憚って姿を隠したという説もあるが、これも憶測にすぎない。
 
 濃姫は信長が安土に移ってのち安土殿と呼ばれていた。
 本能寺の変の折には安土城にいた。
 蒲生賢秀が安土城から他の信長の子女・側室達とともに日野城へ非難させた。
 清洲会議後かいつからか定かではないが、織田信雄が父の正室である濃姫=安土殿を引き取った。
 もちろん、これも憶測にすぎないけれども、もっとも自然な流れではなかろうか。
 
 安土殿は慶長十七年(1612)に亡くなられた。
 大徳寺総見院に墓所にある養華院殿要津妙法大姉という戒名で供養されており、 その過去帳に命日が記されているとのこと。
 
 
  補足     
  <<参考>>
  『信長公記』『織田信長総合事典』『織田信雄分限帳』
  (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) 

 



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